― 407 ―制作年代の上限について、浄瑠璃寺像の構造に着目してみると、1号像のみ一木造りで他八体が寄木造りを用い、さらに中尊像と1・8号像以外は割首が施されていることが注目される(注21)。寄木造りは割矧ぎ造りと同じ頃、11世紀前半に完成したと考えられており、割首も寛弘9年(長和元年〔1012〕)の広隆寺千手観音菩薩像が初例とされている(注22)。浄瑠璃寺草創の永承2年の作と考えられる薬師如来像は、割矧ぎ造りを用い、割首を行うなど、南山城地域に伝来する同時期に制作された他像と比較し、新しい技法を未消化ながら用いて造像されていた(注23)。このような、当該地域における11世紀半ば段階での彫像技法の伝播状況を考慮すると、大体が寄木造りで割首も用いられている浄瑠璃寺像は、11世紀後半以降の作と考えられる。さらに九体阿弥陀堂の建立年代について、先学の多くは嘉承2年の建立と考えている(注24)。筆者も薬師如来像の考察を行った際に『流記』の内容を検討し、九体阿弥陀堂は嘉承2年に建立され、保元2年に現在地へ移築されたという結論に至った(注25)。また、近年行われている浄瑠璃寺庭園の発掘調査により、現在九体阿弥陀堂がある場所には、12世紀前半頃には『流記』に出てくる「西堂」らしき建物があり、阿弥陀堂の現在地への移築は保元2年に行われた可能性が高いとされている(注26)。これは『流記』の記述の信憑性の高さを示していることになり、すなわち九体阿弥陀堂は嘉承2年に建立された蓋然性が高いのではないだろうか。様式・形式的観点からの検討は今後さらに考察を加える必要があるが、浄瑠璃寺像の制作年代は、おおよそ11世紀後半から九体阿弥陀堂完成の嘉承2年頃までと仮定したい。なお、中尊像と脇尊像を同時の作とみるか否かについて、両者の間には作風や形式、技法の点で統一性に欠けることは認められる。これを制作年代の差とみるべきかは、いまのところ明確な根拠を提示できないため結論は避けるが、脇尊像八体間の一具性は支持してよいと考えている。脇尊像をみてみると、八体のうち2・4・5・6号像は衣の端を舌状に垂らす形式をとり、1・2・6・8号像は左肩に懸かる大衣を三角形に折り返しており、八体内でバリエーションをつけていることがわかる。そのような中でも、全て切付け螺髪である点や、プロポーションが似ていること、さらに1・8号像、2・7号像、3・6号像、4・5号像という分類で、面貌表現がそれぞれ似通っていることに気がつく。このことから同一工房内で複数の仏師が同じ意識の下に造像したとしても問題はないだろう。以上から、浄瑠璃寺像の制作年代はⅡ説あるいはⅣ説が妥当といえ、浄瑠璃寺像は嘉承2・3年頃には九体が揃っていたと考えられる。したがって、以下、嘉承に九体
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