鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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2.九体阿弥陀の意味と浄瑠璃寺九体阿弥陀像― 408 ―(1)九品思想と九体阿弥陀の阿弥陀像が成立したという立場のもと考察を進めていくこととする。九体阿弥陀像の造像は、先述したとおり寛仁4年(1020)の藤原道長による法成寺無量寿院造営を嚆矢に、平安時代後期から鎌倉時代はじめにかけて集中して造られた。法成寺が護国的な側面を持った造営であったことは近年指摘されていることだが(注27)、無量寿院はいずれの堂宇よりも先んじて造られ、道長が死期を悟り自ら籠もったところである(注28)。ゆえに無量寿院の発願背景には、道長自身の病による死への意識というものがあり、極楽往生のため、九品にあてて九体の阿弥陀像が造られていることがわかる(注29)。また、承暦元年(1077)に白河天皇によって発願された法勝寺九体阿弥陀堂においては、「往生九品之像(縁カ)」のため常行三昧が修されており(注30)、同じく白河天皇が応徳3年(1086)に建立した円徳院は九品を西土に擬すとある(注31)。ここでいう「九品」とはすなわち、九体阿弥陀像のことと考えられる。白河天皇の場合、生涯にいくつも九体阿弥陀堂を造営しているが、法勝寺は法成寺に対する国家的寺院としての性格があり(注32)、円徳院は中宮賢子の菩提を弔うために建立されたことが供養願文からわかる。さらに、長治元年(1104)に藤原顕季が、生母であり白河院の乳母である親子の追善供養のために造立した仁和寺最勝院も、九体阿弥陀像を九品に擬して安置したことが願文から読み取れる(注33)。このほか、堀河天皇の尊勝寺九体阿弥陀堂(注34)や蓮華蔵院(注35)においても、九体阿弥陀像を九品になぞらえていることがそれぞれの史料から理解できる。尊勝寺阿弥陀堂は造営背景が明記されていないが、没後に遺言によって九壇阿弥陀護摩が修されたり(注36)、忌日に三日間の念仏が唱えられたりしていることから(注37)、堀河天皇が自らの極楽往生のために建立したと考えられる。以上の事例から、九体阿弥陀像の発願背景は自身の往生祈願や故人追善のためなどそれぞれで異なっているが、九体を安置することに意味を置き、九品往生を意識しての造像であることはいずれにおいても共通している(注38)。しかしながらこの頃の九体阿弥陀像は、17世紀に造られた東京・浄真寺九体阿弥陀像にみられるように、九体各像で九品の階位を表現していたとは考えにくい。このことは冨島義幸氏もすでに指摘しているように、尊勝寺九体阿弥陀堂や成菩提院が、中

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