鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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― 409 ―(2)来迎印阿弥陀像の意味央の阿弥陀五尊ないし三尊像のまわりに行道路を設けて不断念仏が行われていたと考えられる点、『兵範記』に収められる福勝院阿弥陀堂指図からわかる、中尊の左右に脇侍が配置される構成から(注39)、九体阿弥陀像は中尊と脇尊八体とで区別され、両者を組み合わせたものといえる(注40)。そのように考えると、冨島氏が言及している成菩提院九体阿弥陀像に関して、中尊のみを仏壇に安置し、仏後壁表面に九品曼荼羅図、裏面に補陀落山図が描かれ、像の前面には供養法壇が設けられている点は他八体と安置・荘厳方法が異なっているといえる(注41)。また、全てが丈六像の福勝院九体阿弥陀像では、白河法皇の五十賀算に際し「中尊」の前に母屋が設けられており(注42)、堀河院九体阿弥陀像は等身阿弥陀八体と半丈六「中尊」が造立されていることから(注43)、中心に坐す像への意識が払われているとも考えられる(注44)。このことから、九体阿弥陀像はそれ自体が九品を意図した造像ではあるが、階位の別はなく、中尊と脇尊とで異なった意識がはたらいていると推察される。これは、平安時代の九品来迎図が九品の相違をあまり明確にしていないこととも共通し(注45)、この時代九品への意識は絵画のみならず彫刻においても希薄であったと想像される。以上から、浄瑠璃寺像の中尊と脇尊とで印相が異なっていることは、両者を区別していた同時代の思想からみればごく自然なことといえる。12世紀半ばから13世紀初めの作とされる臼杵石仏群中のホキ石仏第二群第二龕九体阿弥陀像も、中尊が坐像で定印を結び脇尊が立像で来迎印を結んでいる(注46)。史料から確認できる九体阿弥陀像の事例は、中尊と脇尊で印相が異なっていたかまで明らかにすることは難しいが、発願者の祈りの内容によってさまざまな造形があり得たのではないだろうか。いずれにしろ、平安時代に流行した九体阿弥陀像は中尊と脇尊を区別しており、両者にそれぞれ異なる意味を付与していたものと想像される。平安時代の九体阿弥陀像が中尊像と脇尊像を区別していたということを踏まえ、浄瑠璃寺像では両者にそれぞれどのような意味があるのか考えてみたい。来迎印は、一般に現世に来迎する阿弥陀如来が結ぶ印相とされる。儀軌にみえないためその成立過程は明らかでないが、『白宝口抄』には両手の第一・二指を捻じ、定印を引き散じた印とある(注47)。来迎印を結んだ阿弥陀如来像は11世紀半ば頃から史料上で確認されるようになるが(注48)、現存作例をみてみると、元興寺像や真正極楽寺像といった10世紀末頃の作例が伝わっている。したがって来迎印阿弥陀像の造像は少なくともその頃まで遡ること

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