鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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― 410 ―(3)八体阿弥陀と観音ができ、やがて12世紀末頃になると、来迎印像の作例が目立って多くなっている。浄瑠璃寺中尊像は11世紀後半から12世紀はじめ頃に造られたと考えられ、その頃の阿弥陀如来に対する信仰を、『続本朝往生伝』、『拾遺往生伝』、『後拾遺往生伝』といった12世紀前半に成立した往生伝からみてみると、極楽往生を遂げるために懺悔し罪を滅している事例が多数確認できる(注49)。そもそも阿弥陀如来と滅罪往生を結びつけた信仰は、光明皇后が東大寺に創建した阿弥陀堂が阿弥陀如来への懺悔滅罪と浄土往生を祈願したものであったとされることから(注50)、古代にまで遡ることができる。また儀軌をみてみると、不空訳『無量寿如来観行供養儀軌』(以下『無量寿儀軌』)にみられる「無量寿如来根本陀羅尼」(阿弥陀大呪)が、一切の罪を悉く消滅し極楽浄土へ上品上生できる功能が有ると説いている(注51)。さらに菩提流志訳『不空羂索神変真言経』などにみえる光明真言は、真言で加持した土砂を亡者の死骸の上などに散ずると、生前に犯した罪が消滅し極楽浄土へ往生できると説かれ(注52)、このような光明真言法は平安後期には阿弥陀如来像を本尊としていたという指摘もある(注53)。ゆえに、中尊が造像された頃の阿弥陀信仰を考えるとき、滅罪と極楽往生を切り離すことはできない。浄瑠璃寺では、延久3年(1071)に土砂加持を用いた往生講が始められたことが『流記』に記されている。さらに長治2年(1105)の墨書がある十二体一版の印仏と、それよりも制作が遡る百体一版の摺仏は、中尊像の胎内に納入されていたと伝わっている(注54)。千仏を彷彿とさせる摺仏と印仏は滅罪との関連が指摘されており(注55)、土砂加持は光明真言を誦して亡者の滅罪往生のために行われることは先に確認した。したがって11世紀後半から12世紀はじめの浄瑠璃寺では、罪障を滅して極楽往生を果たすための行いが修されており、そのような背景のもとで求められていた像が来迎印阿弥陀像であったということになる(注56)。来迎印阿弥陀像に関し、文治5年(1189)の運慶作浄楽寺阿弥陀如来像は、阿弥陀小呪を唱える礼拝者の行いに応えて衆生を引摂し、逆罪者をも救済する性格を有していると考えられている(注57)。また建久5年(1194)快慶作遣迎院阿弥陀如来像は胎内に千仏を表す印仏を納入しており、千仏信仰による滅罪の結果としての阿弥陀如来の引摂という流れが想定されている(注58)。つまり来迎印阿弥陀像は、滅罪のための行いの結果としての、来迎引摂する阿弥陀如来を造形化したものと考えられる。続いて定印を結んだ脇尊八体について考えてみたい。定印は妙観察智印とも呼ば

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