鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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― 412 ―(4)浄瑠璃寺九体阿弥陀像の成立―経緯・思想・関与した僧侶をめぐってている(注63)。『行林抄』は平安中期の天台僧皇慶の私記を中心に静然がまとめたものであり、『秘鈔』では「小野伝」として平安中期の真言僧仁海の説が引用されている。したがって、このような行法は少なくとも平安中期頃には天台・真言を問わず修されていたと考えられる。浄瑠璃寺の脇尊像八体が定印を結んでいることは、行者が阿弥陀法を修し、苦しみや煩悩から離れて極楽浄土に上品上生するための観想の本尊としての役割が想定される。阿弥陀如来像を八体造像する事例は同時代の史料からも確認でき(注64)、先に挙げた『秘鈔』「阿弥陀法」の中では本尊のひとつに「阿弥陀八体」と記されていることから、当時は八体阿弥陀像を本尊とすることも一般的であったのだろう。さらに『秘鈔』の注釈書にあたる『白宝口抄』の同部分に対応する記事中には、八葉中台合九品教主也。故九尊皆弥陀也。大師御作次第。九尊種子皆活字也。但台上観音也。此即弥陀観音一体異名習之上無相違也。(注65)とあり、中台の観音菩薩と八葉の阿弥陀如来とで九品が意識されていることは興味深い。すなわち、八体阿弥陀像は九品を志向しての造像であったと推測される。以上から、浄瑠璃寺像は中尊に滅罪往生のための来迎印阿弥陀像を安置し、両脇には行者が観音菩薩と一体となる観想の本尊の定印阿弥陀像八体を配し、全体として、罪を滅して阿弥陀如来の来迎を得て上品上生することを目指したものと考えられる。このような構成をとることに関して、嘉承3年に浄瑠璃寺で総供養が行われた際の供養導師、随願寺僧経源の存在が注目される。経源は参議藤原為隆の出家受戒の御師を務めたほか(注66)、法隆寺聖霊院聖徳太子像の開眼供養導師も務めた人物であり(注67)、彼の思想が浄瑠璃寺像の造形に何らかの影響を与えていた可能性はこれまでにも指摘されてきた(注68)。『後拾遺往生伝』の経源伝によると、経源は興福寺から小田原に移った法相・真言の兼学僧で、日頃から往生業を修し、命終時にも阿弥陀如来の念仏を唱え阿弥陀の来迎を望んでいることが読み取れる(注69)。しかし、最終的には阿弥陀如来ではなく観音菩薩の念仏を唱えて定印を結んでいる点が注目される。このことから、彼は定印の阿弥陀如来八人に囲まれ、観音菩薩と一体になり往生することを強く願っていた可能性が高い。また、経源は命終に臨んで懺法を行っていることから、滅罪を果たして

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