鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
423/620

― 413 ―からの往生を重視していたと考えられ、浄瑠璃寺中尊の来迎印阿弥陀像もまた彼の思想に適ったものといえる。このように、浄瑠璃寺像の中尊像と脇尊像の印相の違いは、経源の信仰と合致している。来迎印と定印という選択は、やはり彼が法相と真言を兼学していたため、浄土教信仰者というだけでなく阿弥陀法にも精通していたからと想像される。九体阿弥陀像の成立に経源の関与があったとすると、『流記』には嘉承3年の総供養時の願主として「公深阿波公」なる人物が登場しており、九体阿弥陀像ないし脇尊像は彼の発願によるものであったことがわかる。公深がどのような人物かは従来知られていなかったが、稲田荘(大和国平群郡)に領地を有していたようである(注70)。九体阿弥陀像は貴顕のみに受容されていたと考えられてきたなかで、史料でほとんど確認できない公深の存在は特異といえる。しかし、これまで注目されることはなかったが、平安後期の僧西念は、保延5年(1139)に一尺六寸の皆金色九体阿弥陀像を造立し、それぞれの胎内に摺写した法華経を奉籠している(注71)。さらに同時代の真言僧で保寿院流の祖である永厳も九体阿弥陀像を造像していたようである(注72)。したがって12世紀前半頃には、僧侶が個人レベルで九体阿弥陀像を造像していたことがわかる。このことから、九体阿弥陀像は貴顕のみが造立していたものではなく、幅広い身分の者も小規模ながら造営を行っていたといえる。そのため、公深が経源の指導のもとに九体阿弥陀像、あるいは脇尊八体を造像していてもおかしくはないだろう。また、浄瑠璃寺は山に囲まれた静かなところにあるが、これは延久・承保年間(1069〜1076)頃の成立と考えられている『狭衣物語』で、宰相中将母君が死を前に籠もった慈心寺という寺の環境に類似している(注73)。されどこゝには、人あるけはひもせで、九体の阿弥陀おはする御堂に、やがておはするなりけり。堂の飾りなども、「極楽もかくや」と思ひやられて、いと清らに尊かりけるを、「などて、今まで見ざりつらん」と、口惜し。坊どもに、小法師ばらの、物誦じなどする声々聞えて、例ならず患ふ人のあたりともおぼえず、静かに心細げなり。懺法・阿弥陀の声ばかりぞ聞ゆる。(注74)慈心寺は未詳ながら、京都市嵯峨小倉山の東南にある亀山のふもとにあった寺院で(注75)、宰相中将母君の夫後式部卿宮が建立したものである。荘厳された堂内には九体阿弥陀像が安置され、僧が法華懺法や阿弥陀経を読誦する声以外は人がいる気配も

元のページ  ../index.html#423

このブックを見る