鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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注⑴清水擴『平安時代仏教建築史の研究─浄土教建築を中心に』中央公論美術出版、1992。⑵脇尊像は注⑹の田中論文に倣い、中尊像に向かって右端(最北)を1号像とし、以下順次左に― 414 ―ないようなところであった。宰相中将母君は、体調を崩したために念仏して臨終を迎えようと、この慈心寺に移っている。坊舎では法華懺法が行われており、滅罪と極楽往生との関係も想起される。浄瑠璃寺が山間の静かな環境に造営されたことは、このように往生を遂げるのに適した場所として選択されたものと考えられる。浄瑠璃寺九体阿弥陀像成立の背景には、浄土願生者である経源の信仰が垣間見え、つまり浄瑠璃寺像は、ただひたすら上品上生往生を目指し造像されたものといえる。おわりに浄瑠璃寺像は九品の意識のもと、滅罪往生を祈る来迎印阿弥陀像と、観想の本尊としての八体定印阿弥陀像を配した構成をとっていると考えられる。中尊像と脇尊像の間に制作年代の差があるか否かは今後さらに検討していくが、仮にあったとしても、八体阿弥陀像は九品を志向していたものと考えられることから、先に安置されていた独尊の阿弥陀如来像に八体を追加することも、思想的には抵抗なく可能だったのではないだろうか。浄瑠璃寺像についてはこのような解釈ができそうだが、平安時代に造像された九体阿弥陀像は、個々の事例においてその制作背景が異なっており、その造営者も従来考えられていたように貴顕に限られたものではなかった。したがって、九体阿弥陀像はもっと広い視野で全体を捉え直した方がよいのかもしれない。数え左端(最南)を8号像とする。⑶Ⅰ説を説く論考は次のとおり。東京美術学校編『南都十大寺大鏡 西大寺大鏡 第3 浄瑠璃寺・岩船寺』解説、大塚巧芸社、1934。井上正「浄瑠璃寺九体阿弥陀如来像の造立年代について」『國華』861、1963。中野玄三「阿弥陀如来像」清岡卓行・佐伯快勝『古寺巡礼 京都7 浄瑠璃寺』淡交社、1976。⑷Ⅱ説を説く論考は次のとおり。小林剛・森蘊『浄瑠璃寺』鹿鳴荘、1957。福山敏男「浄瑠璃寺」青野季吉・福山敏男『日本の寺 5 浄瑠璃寺』美術出版社、1959。大宮康男「定朝様阿弥陀如来像に就いて」『静岡大学教育学部研究報告(人文・社会科学篇)』42、1992。

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