鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
426/620

■ 前掲注⑽拙稿。■ 前掲注⑷小林・森論文、同福山論文、工藤圭章「阿弥陀堂建築」(『原色日本の美術六 阿弥陀堂と藤原彫刻』小学館、1969)、伊藤延男「本堂」(『大和古寺大観 第7巻 海住山寺・岩船寺・浄瑠璃寺』岩波書店、1978)等が挙げられる。■ 前掲注⑽拙稿。■ 平成25年度文化財記者発表資料「浄瑠璃寺庭園保存修理に伴う発掘調査(第3次)の概要」木津川市教育委員会、2013。『流記』には久安6年に池を整備する記述があるが、この発掘調査ではそのことを裏付ける結果が出ている。本資料は文化庁・奥健夫氏より提供していただいた。■ 上島享「藤原道長と院政」『日本中世社会の形成と王権』第1部第2章、名古屋大学出版会、■ 『小右記』万寿4年(1027)11月25日条(大日本古記録)。■ 『栄花物語』下巻第十八「たまのうてな」(日本古典文学大系)。■ 「承暦元年十二月法勝寺供養記」(藤田経世編『校刊美術史料 寺院編 中巻』中央公論美術出■ 「円徳院供養願文」(『本朝続文粋』巻十三願文下〔新訂増補国史大系〕)。■ 前掲注■上島論考。■ 「修理大夫顕季卿仁和寺九体阿弥陀堂供養願文」(山崎誠『江都督納言願文集注解』塙書房、■ 「堀河院尊勝寺阿弥陀堂供養願文」(山崎誠『江都督納言願文集注解』塙書房、2010)。■ 『大記』永久(1114)2年11月29日条(『大日本史料』第3編之15)。■ 『中右記』嘉承2年(1107)7月24日条(増補史料大成)。■ 『殿暦』天仁2年(1109)7月19日条(大日本古記録)。■ 礪波恵昭氏は数量功徳主義的思想によるものと位置づけているが(「九体阿弥陀像の展開─九体阿弥陀像から九品阿弥陀像へ─」『日本文化史研究』27、帝塚山短期大学日本文化史研究会、1997)、多数の像を造立した事例としては百体の阿弥陀如来像を供養した例もあるため(『兵範記』仁平2年(1152)12月18日条〔増補史料大成〕)、〝九体〟の阿弥陀如来像を造像したという点に積極的意味があったと考えるべきであろう。■ 仁平2年2月28日条(増補史料大成)。■ 冨島義幸「九体阿弥陀堂と常行堂─尊勝寺阿弥陀堂の復元と位置づけをめぐって─」『仏教芸― 416 ―2010。2010)。山本勉「運慶と快慶」『日本美術全集 第7巻 鎌倉・南北朝時代Ⅰ 運慶・快慶と中世寺院』小学館、2013。⒁奥健夫「奈良の鎌倉時代彫刻」『日本の美術』536、ぎょうせい、2011。⒂岩佐光晴「川端家寄贈の毘沙門天立像」『MUSEUM』592、2004。⒃『真俗雑記問答鈔』第十七本(『真言宗全書』37)。⒄前掲注⒁奥論考。⒅前掲注⒂岩佐論文。⒆前掲注⒃。⒇前掲注⑺井上論文。■ 前掲注⑹田中論文。■ 丸尾彰三郎「千手観音菩薩像」『日本彫刻史基礎資料集成 平安時代 造像銘記篇1 解説』中央公論美術出版、1966。版、1975)。

元のページ  ../index.html#426

このブックを見る