― 33 ―(イェルサレムの聖墳墓との関連性の再検討)それぞれの柱の上にわたされているアーキトレーブ(高さ16cm)は溝彫りの装飾が施されている。玄関柱廊の屋根はほとんど残されていない。右奥の柱の上方になんらかの円形の装飾の突起(アクロテリオン)が存在していた痕跡が残され、その突起の内側から屋根が立ち上がっているが、おそらく円筒形をしていたと推測される。天井も円筒ヴォールトの輪郭をたどっている。よって、建物は9本の柱で囲まれていたが、ケッラ部分の5本の柱の柱身は別材で、おそらく色大理石が使われていたのではないかと推測される。一方、柱廊玄関の4本の柱は、左奥の柱には柱礎の上につながった柱身の一部が残されており、また右奥の柱頭にホゾ穴の痕跡は見当たらず、柱身は別材ではなかったことが分かる。ケッラの奥の壁の開口部の上面は、わずかな段差をつけて整えられている。開口部およびケッラの内部の壁の上部は、磨かれずに荒削りのまま残されている。基壇の周囲の小さな穴については、鉤を差し込み布や花輪のような飾りが吊るされていたという見解がこれまで提示されている。しかし、玄関廊の床の正方形の溝について、さらに基壇前面の左右のほぞ穴について、これまで十分にその用途が論議されてきているとはいえない。また奥室の開口部、そして敷居の中央にある切り込みの存在理由はなんであったのだろうか。キリストが埋葬され復活した墓は、コンスタンティヌス大帝により発見され、礼拝の場所として整備され、聖堂によって覆われた。この初期の聖墳墓の姿について、複数の文書資料および『聖女の墓詣』などの図像資料によって、これまで復元が試みられている(注4)。エウセビオスは『コンスタンティヌスの生涯』において、皇帝が発見したキリストの墓を「洞穴」と呼んでいる(注5)。それはエルサレムのキュリロスも同様であり、コンスタンティヌス帝が情熱を持って行った装飾のために、洞窟の外側は削り取られてしまい今では見ることはできないが 、と述べている(注6)。つまり、コンスタンティヌス帝により整備された聖墳墓は、洞穴の内部空間だけをそのままに残し、外側の膨大な岩を取り去った小建造物であった。そのほか6世紀から9世紀の間の記録のほとんどにおいて、聖墳墓は岩にくりぬかれている建造物であることが強調されている。よって、聖墳墓は生の岩と一体であること、モノリスであることが、特にその聖性にとって重要な要素であったことがうかがえる。
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