注⑴表に列挙した他に、売立目録「戸田子爵・家某家・四月」には「古土佐」と記す「厳島図屏風」(表記は厳島図とあるが天橋立図)六曲一隻、売立目録「玉村家・某家・四月」には「厳島・天橋立図屏風」六曲一双が確認されるが、詳細が不明であり、一覽には加えていない。・ 「厳島図の振幅─広島県立美術館本の位置づけをめぐって─」『広島県立美術館 研究紀要』第・ 「個人蔵「厳島図」─変貌する聖地とそのエンタテイメント─」『広島県立美術館 研究紀要』・ 「個人蔵「厳島・和歌浦図」─超時空のトリック─」『広島県立美術館研究紀要』第六号、・ 「厳島図の成立と展開に関する研究 (「美術に関する調査研究の助成」研究報告)」『鹿島美術― 428 ―在が浮かび上がった。しかしながら、同一の絵師というわけではなく、両者とも十七世紀前半から中頃にかけての作例であるが、制作時代は若干前後していると考える。人物表現や筆致、樹木の描き方、風俗表現などから、先行するのは黎明教会本であると思われるが、後補もあることから断定するのは難しい。他方、個人蔵本を後発としたのは、次のような理由からである。形状がより整理されていること。ごく稀に人物や柱などの数が間引かれていること。省略がある反面、一つ一つの描写が丁寧になっていること。つまり、個人蔵本は「型」に倣いながら、ある種の完成型に至った秀逸の作例であると考えている。また、景観年代については、建築物からは特定できない。小袖、細帯、被衣などの風俗表現に着目すると、慶安四年(1651)に宮中以外で女性の被衣が禁止される以前の様子を描いていると言えるだろう。この二つの「天橋立・厳島図」は、土地のイメージ情報が最も多い作例であり、造形としても完成されたものであった。ここから派生する以降の作例では、個人蔵本や黎明教会本から部分的に形とイメージが選択され、時にデフォルメされて受け継がれていったと考える。⑵宮島新一『風俗画の近世』至文堂、2004年⑶長谷川成一『失われた景観─名所が語る江戸時代』吉川弘文館、1996年⑷知念理「(講演)教科書では学べない!描かれた厳島」『日本三景展』美術講座1(広島県立美術館、2005年8月14日)、伊藤太「日本三景と中世都市」『日本三景への誘い』清文堂、2007年、96頁。⑸知念理氏の以下の論考を参考にした。四号、2000年第五号、2001年研究』年報21号別冊、2003年・「〔厳島図障屏画一覧〕補遺」『広島県立美術館研究紀要』第八号、2005年2002年
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