研 究 者:国立西洋美術館 主任研究員 陳 岡 めぐみはじめにウジェーヌ・ドラクロワ(1798−1863)が1849年から1854年にかけて取り組んだ旧パリ市庁舎の「平和の間」は、1871年5月、パリ・コミューンの混乱のなかで焼失した。しかし図像については、1882年刊行のマリウス・ヴァションの『旧パリ市庁舎1855−1871年』(注1)の挿図などから概要が知られている。これらは弟子のピエール・アンドリュー(Pierre Andrieu 1821−1892)が制作した素描にもとづく版画挿絵であり、完成構図を示すものとして、1989年のカタログ・レゾネ(注2)にいたるまで、その後の出版物のなかに掲載されてきた。こうした図版や手紙、批評などから、「平和の間」は、天井の円形構図の寓意画《人類を慰め、豊穣に導く平和》を中心に、古代の神々を描いた8点の楕円形格間、そしてヘラクレスの生涯を描いた11点のリュネットで構成されたことがわかっている。また、ドラクロワのアトリエに残されていた習作群も、少数ながら残されている。1863年にドラクロワが死去すると、その一部は翌年のアトリエの競売で売り立てられる一方、この仕事の協力者であったアンドリューに、ドラクロワが描いたスケッチ(croquis)群と、アンドリュー自身が描いた油彩習作(esquisse)などが遺贈された(注3)。こうした習作は、その後、競売や画商の取引を通じて分散し、各地の美術館やコレクターの所有となる。一方、1966年のジョンソンの論文(注4)を重要な契機として、ドラクロワの素描におけるアトリビューションの問題は、現存資料の少ないこの「平和の間」に関する習作を中心に多くの議論を集めてきた。国立西洋美術館(以下、西美と表記)が所蔵する「平和の間」のリュネットに関連するドラクロワの2点の素描、《ヘラクレスとケンタウロス》と《ヘラクレスとネメアの獅子》もこうした文脈のなかで再検討すべき作品である。報告者は以前に自著でこの問題を取り上げ、天井画に関連付けられてきた素描については、主題が異なること、アンドリューが手がけたゲルマント城天井画との関係が明らかであることを指摘した(注5)。小稿では、パリのカルナヴァレ美術館の資料室において新資料を発見した《ヘラクレスとネメアの獅子》〔図1〕を中心とする現状での調査研究の報告をまとめる。― 433 ―㊴ ドラクロワ「平和の間」天井画をめぐる素描研究
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