鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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― 434 ―《ヘラクレスとネメアの獅子》「平和の間」の装飾計画は、七月王政期にはじまるパリ市庁舎の拡張工事の一環としておこなわれた。ドラクロワが最初にこの仕事に言及するのは、1851年10月のジョルジュ・サンド宛の手紙のなかである(注6)。正確な注文日は不明だが、1852年2月にはこの仕事に取り組んでいる。最初にアトリエでカンヴァスに描き、これを市庁舎に持って行き貼り付けるという方式がとられた。油彩習作はきわめて概略的なものしか描かれず、天井画のための1枚の下絵のほか、格間、リュネットそれぞれに1枚ずつの下絵しか制作されなかったが、習作素描は大量に描かれたという(注7)。アトリエでの準備作業は10月頃に終えるが、以後も現場で手直しを続け、最終的な仕上がりは1854年はじめであった。他の建築装飾と同様、ドラクロワはこのときも助手の協力を得たが、直前にルーヴル宮の「アポロンの間」でも助手をつとめたアンドリューはとくに重要な役割を担った。ヴァションによれば、ドラクロワがリュネットの油彩習作を仕上げている間、彼は最終カンヴァスに構図の下絵を描き始めたというほど、制作に密接に関わる(注8)。また、長く続いた現場での加筆も2人が相談しながら進めた様子がうかがわれる。ドラクロワはアンドリューへの手紙でこう述べている。「君の印象について私に言ってくれたことは、私も同感です。《ヴェヌス》はまだ加筆していないが、君が言っている向きになるでしょう」(注9)。ドラクロワはこの弟子に、破損した自作の修復や、コレクターに頼まれた自作の模写の制作も頼むなど、日頃より厚い信頼を寄せていた。さて、西美の《ヘラクレスとネメアの獅子》は、実業家松方幸次郎が1910年代後半から1920年代前半にかけてヨーロッパで形成したコレクションに由来する。ネメアの獰猛なライオンを締め上げて倒し、その皮を剥いで衣とした話は、ヘラクレスの12の難業のなかでも最初の冒険譚である。猛々しいライオンとの戦いを描いた作品をドラクロワは繰り返し描いたが、この「平和の間」で選ばれた場面は、勝利を収めたヘラクレスがライオンの死骸を木に吊るし、その皮を剥いでいるという特異なものである。この主題のリュネットのための習作としては、フライブルク美術歴史博物館が所蔵する油彩習作(24×47㎝、Johnson 585)が知られる。〔図2〕升目をつけたこの作品はおそらく最終習作の1つであり、1864年の売り立ての43番にあたるとされる。これとヴァションの挿図〔図3〕を比べると、細部の違いを別とすれば、ほぼ同一の構図、モティーフである。その他、初期の準備素描としてはアミアンのピカルディー美術館

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