鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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(21×25cm)、トレーシングペーパーによる《ネメアのライオンを討伐するヘラクレス》が、あるいは1918年3月19日のウジェーヌ・グラッセの競売に、サイズは不明だが、やはりトレーシングペーパーによる関連素描が複数出品されている例が見られる。― 436 ―トレーシングペーパーに関しては、1863年4月13日のドラクロワの日記には、油を染み込ませて透明性を持たせた紙を使用していたことへの言及がある。「今日、ビュルティ氏が、石版画の試刷りをするため、4点の素描やトレース素描calqueを持っていった。そのうちの1枚は、筆によるスケッチで、《鏡を持つ女》である。油につけた紙papier huiléeでのトレース素描は、市庁舎のムーサの“クレイオー”のために用いたものである。」(注11)歴史を司るムーサ、クレイオーは格間の1つに描かれた。トレースは、大規模な装飾プロジェクトにおいて準備スケッチを重ねて最終的な構図をまとめあげていく制作過程や、構図やモティーフをほかの作品での再利用、あるいは版画のための下絵として利用したりする場合などにおこなわれている。たとえば、ドラクロワが1833−1847年に手がけたブルボン宮の関連素描を見てみると、ほぼ完成作に近いトレース素描がいくつか残されており、拡大図を得るためか、升目がつけられた例〔図7〕や、完成作とは逆構図の例もある〔図8〕。また、大量の準備素描を描いた「平和の間」の制作において、ドラクロワはこれらを石版画集として出版しようと思い立ち、絵具商人がこのために「特別な石版画用紙」を提供したともいう(注12)。ヴァションによれば、この紙だけを使用することに煩わしさを覚え、仕事にとりかからなかったというが、リュネットとほぼ同構図の《ヘラクレスとアンタエウス》の石版画(26.4×43.2cm)の存在が知られている。〔図9〕6部しか確認されていない希少な版画である。この版画のもとになった素描は現所在は不明だが、アレヴィHalévyへの献呈文を持ち、エドゥアール・ロドリゲス Edouard Rodriquesが所有していたという(注13)。西美素描もこうした石版画の下絵として制作された可能性はあるのだろうか。あるいは、ドラクロワの工房教育においてもトレースは重要な役割を果たした。アンドリューの弟子であったルネ・ピオは、「アポロンの間」の仕事にあたる前、ドラクロワがアンドリューに幾夜にもわたって自分の素描の「模写とトレース」をさせてその手法を覚え込ませたと伝えている(注14)。「平和の間」の関連素描において、完成構図に近い素描は現時点では確認されていない。だが、そもそも、1853年8月3日付のアンドリュー宛の手紙で「平和の間」の制作に触れたなかで、ドラクロワはこう述べてもいる。「…しかし扉上の絵[リュネット]は相当進みました。それらはすべて手を入れ直し、思い切って人物像を拡大し

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