― 438 ―結びに代えて―アトリエ印の問題アトリビューションの問題はさらに慎重な調査と検討の必要があるが、西美素描にせよアミアン素描にせよドラクロワのアトリエ印「E.D.」が押されていることが、いずれもドラクロワ作とされてきた大きな根拠と考えられる。ドラクロワのアトリエ印については、フリッツ・ルフトの『素描版画の所蔵印事典』(注17)では、現在、真印としてL.838a〔図12〕、偽印としてL.838〔図13〕、L.838b 〔図14)、L.3956〔図15〕が収録されている。1863年にドラクロワが死去、翌1864年2月22-27日アトリエに残されていた作品群の売り立てがおこなわれた際、6000点にのぼる素描や水彩に赤インクの「ED」の印が押された。これがいわゆる真印である。判別は容易ではないが、真印と偽印を比べると、L.838の赤は暗めであり、Dの縦線がより直線的かつ接しておらず、下部の丸い交差部が潰れ気味である。そして真印が押された素描と比べ、こちらのスタンプは無造作な押し方が特徴で、画像附近に押されたり、傾いていたり、さらにインクがかすれている場合が多いとされる(注18)。また、L.3956はオレンジがかった赤で、Dの下部の輪は上部の輪より外に出ている。そして、L.838bは、Eの上下の弧にはさまれた横線がより長く、Dは上部の輪の傾きが真印より大きく、下部の輪より外に出ている。一方、ドラクロワのアトリエ印の問題の複雑さは、真印が必ずしもドラクロワの真作であることを保証せず、偽印が必ずしもドラクロワの偽作であることを意味するわけでない点にある。真印とされるL.838aは、アトリエに残されていたアンドリューの素描にも押されていることが知られる。かつてロボーは(1885年)このアトリエ印を保管していたのはアンドリューと推測し、彼の濫用を疑ったが、2011年のリナレスの論文は、ドラクロワの友人で包括受遺者だったアシール・ピロン(1798−1865)が、売り立て時の鑑定人であったフランシス・プティから、ドラクロワの素描に押すことを依頼されていたことを明らかにした(注19)。すなわち、弟子が故意に自分の作品を師の作品として世に出したわけではなく、大量に残されていた習作素描の中で混同が起きたということになる。また、L.838は、ドラクロワの真作の素描にもアンドリューの素描にも区別なく押されていることがわかっている。ここでもかつてはアンドリューの関与が疑われ、彼もしくは、1892年5月7日に彼の死後の売り立てを開いた遺族たちが偽印を作り、弟子の作品にも故意に師のアトリエ印を押して流布させた可能性が考えられてきた。しかし1993年にストローバーは、アンドリューの隣人でもあった画商のヴュイリエ Vuillierが作った可能性を示した(注20)。さらにリナレスは、他の画商の名前も挙げ
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