― 35 ―の開口部と、ひし形の物体が表されている。その他のいくつかの製油瓶ではさらに表現は簡略されているが、円錐形の屋根、2本ないし4本の柱、柵と開口部など共通した要素で構成されている。「モンツァN°10」、「モンツァN°11」、「ボッビオN°15」などでは、屋根の下に細長い葉が半円形に開いたモチーフが表されており、ニッチの貝装飾と見なすことが出来る。「モンツァN°3」や「モンツァN°5」のアーチの下の物体は、新約聖書が伝えるところの「墓の入口のころがされていた石」であろうと解釈される。石はキリストの復活を象徴する記念物の一つとして崇敬の対象となっており、最初期より聖墳墓の入口に存在していたことが、エルサレムのキュリロスの記述から知ることができる(注15)。ウィリバルド(注16)によれば石の形は四角であり、フォーティオスの時代には石は二つに割れていた。三日月状のアーチは、その石を覆っていたキボリウム、ないし墓室への入口の小さなアーチであろう。ヴァティカン美術館所蔵の6世紀のパレスティナの聖遺物箱の木製の蓋の『墓詣』の聖墳墓の表現はこれらの聖油瓶の表現と明瞭な類似点を持っている(注17)。古キリスト教時代の『聖女たちの墓詣』の図像でしばしば表される聖墳墓は、実際様々なヴァリエーションがあり、現実の建造体であった聖墳墓とは関係なく、当時の墓建築についての一般的な表象を示していると解釈される例が多い。ガリアの作例には明らかに墓廟建築との関連性が指摘できるであろう(注18)。とはいえ、A. Grabarは下部が方形で上部が円形である塔の形に初期の聖墳墓の形を推定し、いくつかの文書資料や図像資料と矛盾が生じる点を説明するために、聖墳墓とその入り口の前の「ころがされた石」の置かれたプレスビュテリウムと二つの空間を覆う形で、ピラミッド型の屋根を持つ「軽い素材の構造物」を仮定している(注19)。しかしその説明は明らかに無理があり、玄関廊の存在を仮定することがより自然な解釈であろう。エゲリアの巡礼記には、司教が聖墳墓に入り、柵(cancelli)越しに人々に祈りを行った記述があり、聖墳墓の墓室自体に入ったというよりも、その手前に柵に囲まれた前室の存在を推測させる(注20)。僧ベルナルドゥス(注21)は、9本の柱がキリストの墓を囲み、その9本の内の4本が建物の前にあり、これらは天使が転がした石を囲んでいると述べている。一方フォーティオスは、最も西の端2本には中央に1本の柱があるが、東の端には墓の入口がはっきりと残されており、このような中央の柱はないとする(注22)。コンスタンティヌス帝によって墓が発見された時代、墓の戸の前には、「この地の墓々の前に通常成されているように」、岩に掘られた隠処が存在した、とキュリロスは語っているが、実際、イェルサレムの第二神殿の時代の洞窟タイプの墓の多くは玄
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