4.絵画における「写真的視覚」― 455 ―《瀬戸内海》の右側の女性は富子であると結論づけられる。そうであるとすれば、顔を切り取った理由としては、ひとつには画面に同一人物を登場させることを避けるためであろう。しかしながらこのような特異な表現を選択したのには、さらなる理由があると考えられる。それについては次節で検討する。ここまで《瀬戸内海》〔図3〕の右側に描かれた、顔を半分切除された女性について考察してきたが、中村は《車を停む》〔図5〕をはじめ、他の作品でもモチーフのトリミングを意図的に行っている。川路柳虹が、「「車を停む」は馬車を描くだけだが、ドガの有名な「競馬場の馬車」を見るように、車を思い切り下方に描いている。馬は一部を描くだけだが、これはさらに大胆にその臀部だけを描いている」(注9)と述べるように、馬車に乗る3人の女性という中心的主題を画面の中央に配置せずに敢えて左端に寄せ、なおかつ馬車の全容を描かずに、大胆なトリミングを施しているのである。それゆえ、川路はドガを引き合いに出しつつ、「その作品は、構図は近代的にあたらしい」(注10)と評している。また、先にも触れたとおり《瀬戸内海》は高い場所から見下ろす俯瞰的構図が採用されていることに加え、人物の足が重なりあう画面下部より、人物がV字をなすように、あたかも拡散するかのように配されている〔図7〕。しかも、2点透視図法によって、テーブルをいささか歪んでいるかのように描くことで、空間のひずみを敢えて表現しているようでもある。このようにして《瀬戸内海》には、静止した画面でありながらも躍動的な印象が生まれる。事実、当時の論評においても、画面に「近代的な動的なリズム」(注11)があることが指摘されており、彼の作品に「近代的な新しさ」が看取されていたことを裏付ける。ではこのような中村の作品が、なぜ当時において新しいと感じさせるものであったのだろうか。さらに中村の官展出品作に対する論評を参照すると、例えば春山武松が《車を停む》〔図5〕に対して述べた「あの図の立て方は活動写真式で、監督の頭脳のよさか、カメラマンの手腕か。ともかく中村氏にはそんな方面の才能のひらめきがある。」(注12)という一節や、《海辺にて》〔図6〕に対し林達郎が寄せた「大気との肉体や衣装の接触面の感じ、光と影と物質の交錯する所を巧に扱つて、恰も澄明な、もう一つ精巧なレンズを通して見たやうに、無駄が省略され鮮かに物象が浮き彫りにされるのである。」(注13)などという興味深い論評がある。さらに《瀬戸内海》について、児島善三郎は「レンズのやうな見方」で捉えられた「遠近法」が使用されている
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