鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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― 456 ―と評している(注14)。ここでいう「レンズのやうな見方」の「遠近法」とは、その絵画から判断するに、広角レンズを通して見たときに感じるような、拡散するような歪みのある空間のことを指していると思われる。このように当時の論評において明確に指摘されているように、中村の一連の作品の新しさの所以は、カメラのレンズを通して見たような写真的な視覚が展開されていると理解されたことにあったのではないだろうか。折しも当時は、ドイツから日本へ移入されたモダニズムとしての新興写真運動が席巻していた時期と重なる。昭和5年に設立された新興写真研究会を皮切りに、翌昭和6年に独逸国際移動写真展が東京と大阪を巡回したことが契機となり、新興写真運動はピークを迎えた。昭和7年には、野島康三、中山岩太、木村伊兵衛を同人とする『光画』が創刊され、野島の《細川ちか子氏》(昭和7年)〔図8〕のような、人物の顔を真っ二つに断ち切る大胆なアングルによる写真作品も生みだされた。さらに同年は、新興写真研究会の同人であった堀野正雄が、機械美学を唱えた評論家・板垣鷹穂とともに共同実験を行った成果としての写真集『カメラ・眼×鉄・構成』を刊行した年でもある(注16)。船や鉄橋、ガスタンクなどの建造物を、ダイナミックな視点で、機械の眼によって即物的に捉える写真からなる同著は、新興写真を代表するものであった〔図9〕。つまり、当時において絵画と写真が同時代の視覚文化という枠組みにおいて不可分の関係にあったとすれば、そのような新しい「写真的視覚」が、中村研一の絵画を見る同時代の批評家たちの念頭にもあったと考えられる。それゆえ彼らは、大胆なトリミングを施したり、俯瞰的視点から見下ろした動的な構図をとり、あたかも広角レンズを用いているような空間の歪みのある中村の絵画に、新興写真との接点を見出したのではないだろうか。中村自身もカメラをかなり早い段階から愛用していたが、彼によればカメラは位置や光を見定めるのには重要な道具で、視覚的なるがゆえに絵画とも関係のあるものであるが、写真と絵画はあくまでも別物であると考えていたようである(注17)。しかし、同時代の新興写真の動向とも軌を一にする視覚文化空間の中で、彼の絵画に写真的視覚が看取され、それが彼の絵画に「新しさ」という視座を開いたという点は極めて重要である。5.「現代風俗画」としての意義さて、中村研一が昭和期官展に出品した一連の作品には、ブルジョワなモダン文化を主題とするという共通項が見いだせる。そしてそのような主題もまた、彼の絵画に

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