6.終わりに― 457 ―おける視覚的な新しさを増幅させるものであった。当時の官展においては、穏健な写実的表現を取るという文展設立以来の至上命題のほかに、人物群像を巧みに構成する大画面であることが求められていた。そのような要求から、中野和高の《風景を配せる我家庭》(昭和3年、第9回帝展、愛媛県美術館)〔図10〕のような「家族団欒図」とも呼べる作品が帝展の一つの流行として注目されていた。中村の作品もまた、「インテリ有閑階級の所在なき家庭画」(注18)と荒城季夫に評されたとおり、家族団欒図の系譜の中で理解されていた。それに加えて、家族団欒図のさらなるヴァリエーションとして流行していたのが、ピクニックや海水浴という主題であった。大久保作次郎の《草上を歩む》(昭和7年、第13回帝展)〔図11〕や、猪熊弦一郎の《海と女》(昭和10年、第二部会展)〔図12〕などがその例である。ピクニックや海水浴は、昭和初期のモダン文化を体現するレジャーであり、それゆえに絵画にもたびたび描かれていた。また、近代日本において流行したピクニックや海水浴という主題の着想源に、エドゥアール・マネの《草上の昼餐》(1862-63年、オルセー美術館)〔図13〕のような作品があったことは想像に難くない(注19)。ところで、中村研一の《車を停む》〔図5〕について、当時の批評において「現代風俗画」と評されていることは注目すべきである(注20)。中村自身も、「現代風俗に直面して画きたかつた」(注21)という言葉どおり、自らが生きる時代を真っ直ぐに見据え、「現代」に肉薄するための表現を模索していたのであろう。海辺のピクニックを主題とする《瀬戸内海》もまた、その視覚的な新しさと相まって、時代の風俗を活写する「現代風俗画」に他ならない。さて、ここまで中村研一の《瀬戸内海》を中心に、ブルジョワなモダン文化を描く一連の大画面人物群像からなる絵画について、美術史や文化史や風俗史、写真史などを横断する視点に立ち、同時代の視覚文化や画壇の動向との関連性を考慮しつつ考察した。それらの作品は、画家自身が生きている時代と真剣に対峙することを通して、その時代の在り様を活写する「現代風俗画」であった。そして、その主題としての現代性に加え、大胆なトリミングや、レンズを通して見たような歪みを呈する表現は、同時代の写真史とも交差する新しい視覚として受け止められた。また彼の作品に見られる、物質的に豊かではありながらもどこか翳りのある憂鬱な雰囲気は、大正デモクラシーから日中戦争、アジア太平洋戦争へと繋がる時代の雰囲気を象徴的に内包しているとも考えられる。
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