注⑴ 小林徳三郎「帝展洋画の花形」『アトリヱ』第7巻第11号、昭和5年11月。⑵ 荒木季夫「帝展洋画印象」『美之國』第6巻第11号、昭和5年11月。⑶ 荒城季夫「帝展の洋画のグリンプス」『アトリヱ』第8巻第11号、昭和6年11月。⑷ 中村研一「車を停む(私の出品作)」『美術新論』第7巻第11号、昭和7年11月。⑸ 「瀬戸内海 中村研一(第二部会展出品─作者記─)」『みづゑ』第369号、昭和10年11月。⑹ ここで中心的に論じる《瀬戸内海》が出品された第二部会展とは、昭和10年6月の帝展改組に反対し、旧帝展第二部無鑑査の作家たちによって結成された第二部会による展覧会である。帝展への反対勢力であることから、厳密に言えば「官展」とは言い難いが、そこに属したのは官展系作家であり、表現や理念もそれ以前の帝展と近似することから、ここでは便宜的に「昭和期官展」の範疇に組み込んで論じることとする。⑺ 中村研一「「瀬戸内海」(第二部会展覧会出品画に就いての感想)」『現代美術』第2巻第8号、⑻ 河野克彦「スチールパイプ製のカンチレバーの椅子」『モダンガールズ、あらわる。 昭和初⑼ 川路柳虹「帝展洋画概観─或る種の作家たちに就て─」『美之國』第8巻第11号、昭和7年11月。⑽ 同上。⑾ 佐波甫「第二部会展評」『美之國』第11巻第11号、昭和10年11月。⑿ 春山武松「帝展の洋画」『朝日新聞』昭和7年10月24日、朝刊。― 458 ―〔附記〕本研究にあたっては、下記の方々から作品調査や聞き取り調査などにおいてご協力を頂きました。ここに記してお礼申し上げます。尾崎眞人・中谷至宏・市村茉梨(京都市美術館)、中村嘉彦(中村研一・琢二生家美術館)、馬目世母子(順不同、敬称略)。明治期以来、西洋美術の伝統としての「構想画」の移植が試みられ、挫折を繰り返しながらも、独自の発展を遂げる過程で日本における官展アカデミズムが確立した。しかしそのような官展アカデミズムも、時代の変遷とともに、昭和期においては大きな変化を遂げていた。つまり、黒田清輝以来求められてきた「構想画」の核心は、絵画に何らかの寓意性や物語を付与することにあったが、昭和期においては、物語や寓意に依拠することなく、自らが生きる「現代」の在り様を絵画において活写する、コンポジションとしての絵画であることが求められた。それは新たなる官展アカデミズムの創造に他ならない。そして、このような官展アカデミズムに関する研究は、モダニズム偏重傾向の中で成立した日本近代美術史においては従来等閑視されがちであったが、本研究を端緒に個別の作品の分析を通じて、官展アカデミズムの様々な様相を明らかにすることで、その重要性を再評価することが求められているのである。昭和10年11月。期の美人画』展図録、島根県立石見美術館編、2008年、92-93頁。
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