鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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― 37 ―(古代末期のナルボンヌ)(注29)17世紀にナルボンヌの司教座聖堂のアプシス付近から発見された巨大な大理石の梁〔図7〕に記された碑文には、教会(ecclesia)が焼失し、大司教ルゥティクスの在位第14年目、つまり441年、に再建築が開始され、一年後にアプシスが完成した、と記されている。ラ・マジョール聖堂に再利用されていた柱の台座には、ルスティクスの在位17年目という年代が記されており、おそらく司教座聖堂のアプシスの柱の台座だったのではないかと推定される。また、駅近くの界隈から出土した聖フェリクス聖堂の奉献の梁の断片には、ルスティクスの在位27年目と記されている。ミネルヴの小教区教会に保存されている祭壇は、ルスティクスの在位30年に奉献されたことが碑文に記される。それでは玄関廊の部分の床に彫られている溝と穴は、どのような設備の痕跡なのであろうか。イェルサレムの聖墳墓の玄関廊には「天使の石」が置かれていたことが、文献資料および図像資料から知られている。『メモリア』の玄関廊には「天使の石」にちなむエウロギア、あるいは聖墳墓の石の破片(注28)が、開閉できる金属の柵や篭のようなものに入れられて安置されていたのではないか、そして信者は正面より『メモリア』に近づき、通常は閉じられている小さな戸を開け、その聖遺物に触れることができたのではないだろうか。基壇前部の左右のホゾ穴は、信者が近づくための小さな段などが設置されていた痕跡ではないかと推測する。『メモリア』の年代については、様式的に4世紀末から6世紀末までの期間であることは確かだが、それ以上の正確な年代を判断するのは難しい。多くの研究者が合意する5世紀という年代は、実際にはナルボンヌのこの時代の建設活動と結び付けられている。ナルボンヌはローマの属州ガリア・ナルボネンシスの首都であり、ストラボンはガリアの第一の港であり、ネマウスス(ニーム)と比較して、外国人の人口が多く、商業が栄えていると述べている(『地理』IV, 1, 12)。教会管区ナルボネンシス・プリマの首都となるが、記録に名が残されている最も早い司教はヒラリウスであり、それを引き継いだのがルスティクスであった。司教ルスティクスは、その長い在位期間を通し、活発な聖堂建設活動を主導した。彼の名前を記す少なくとも5つの碑文が現在まで伝わっている(注30)。よって、5世紀のナルボンヌは、司教ルスティクスによって、豊富な大理石を使用した活発な聖堂建設事業が行われていた(注31)。実際、ガリア地方で司教個人の名

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