― 38 ―(古代の神殿型彫刻との比較)が記された建設の痕跡がこれほど多く残されることは稀である。ナルボンヌの教会の威信を誇示するため、ルスティクスの積極的な主導性がうかがわれ、他にはない独創的なモニュメントを創出させ得る、強い意思と意欲を持ち続けた人物であったことが想像される。一方、古代末期のガリアから東方聖地への巡礼は、広く見られた現象であった。ボルドーの巡礼者(333年)は陸路でイェルサレムへ辿り着いた一方で、マルセイユやナルボンヌのような南ガリアの港からは、海路によってより早く地中海東海岸へ辿り着くことができた(注32)。スルピキウス・セウェールスの友人のポストゥミアヌスは、エジプト巡礼の旅のために、ナルボンヌの港を出発し、カルタゴを経由してアレクサンドリアへ到着、帰路は、アレクサンドリアからマルセイユの港へ向かった(400年頃)。ナルボンヌを発ってから、順風であったので4日後にカルタゴに到着したと語っている(注33)。また、ナルボンヌ出身の貴族の男がイェルサレムを訪れたことをオロシウスが「異教反駁史」(417年)にて言及している(VII:43)。ベツレヘムまでガリアの港から長い航海したアポデミウスのことをヒエロニムスは記している(Jer. Ep. 121)。そして巡礼者ばかりでなく、王たちの交渉、商人による売買によって、数多くの聖遺物とエウロギアが聖地からガリアへもたらされてた。このように、ナルボンヌは海を介在して東方との往来が頻繁な港町であった。東方の聖地のうちでも最も神聖なモニュメントを聖堂内に再現し、人びとの信仰心を集めようとしようと企画したとき、それを実現することはおそらくそれほど困難ではなかったのであろう。古代メソポタミア、エジプト、ギリシアなど、石や粘土製、金属製の建物の模型の作例はよく知られている(注34)。『使徒行伝』のエフェソスの騒動についての記述(19章21−40節)からは、エフェソスのデメトリオという銀細工師が、アルテミスの神殿の模型を銀で作り、職人たちにかなりの利益を得させていたことと、同じような仕事をしている者たちが少なからずいたことを知ることができる。アウグストゥス時代のコマッキオの難破船から発見された6体の金属製の携帯神殿〔図10〕は、こうした個人の信心のための商品であっただろう(注35)。これらは周廊や玄関廊やケッラから構成され、小さな神像が内部に置かれ、扉は開閉が出来るようになっている。格子窓、フリーズの浮き彫り装飾、柱、基壇を飾る花綱などが具体的に詳細に浮き彫りで表されている。
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