2.全真教祖師と仙人図生誕の地に建てられた道観で、元の至正18年(1358)に竣工し、現在もなお元の壁画の優品が残されていることでよく知られている。「八仙過海図」は呂洞賓を祀る純陽殿の北門門額にあり、山西禽昌(襄陵県)の画工である朱好古門人らによって制作されたことが款記からわかる。場面は、成仙した呂洞賓の導きによって得度した仙人等8人が西王母の生誕を祝う蟠桃会に参集するため、崑崙山に向けて海を渡る姿であり、代表的な元曲の演目としても知られ人口に膾炙した。説話的でありかつ祝賀的色彩の強い「八仙過海図」は、商喜の「四仙拱寿図」に通じるが、劉俊画のような複数幅を前提とするような仙人図とはやや機能を異にするように思われる。尊像を複数幅にわたって描く例は、仏教儀礼のために制作される水陸画などが想起される。明の宮廷において制作されたことがわかる事例では、ポール・ペリオ(Paul Pelliot, 1878−1945)が1900年に北京よりフランスに持ち帰り、現在ギメ美術館に保管されている「水陸斎図」がある。ぺリオの入手当時から33幅のみで全体は不明だが、金泥で「大明景泰五年八月初三日施」の施入銘があり、「御用監太監尚義王勤等奉命提督監造」の墨書と「廣運之寶」の印璽があることから、景泰五年(1454)に宮廷内でしつらえられたことが明らかである。波上の仙人図もまた、水陸斎のような宮中における儀礼との関わりから検討する必要があるが、この問題は別稿に譲りたい。さて「水陸斎図」は仏画であるが、儀礼において十方世界のあらゆる神仏を道場に勧請するため、中には仙人が描かれた幅もある。「五通得道神仙侶等衆」と記された幅をみると〔図4〕、寿星と思しき老仙の後ろに蝦蟆を連れた仙人が描かれている。注目すべきはその相貌で、いわゆる顔輝派に通じる姿をしている。商喜と劉俊の活躍期のちょうど間を埋める時期、仏画として制作された作中にこのような仙人像が見いだせることは大変興味深い。顔輝派の作風として見いだされてきた仙人像は、画家の師弟関係や個人様式のレベルではなく、15世紀の明宮廷において特定の仙人像の定型として共有されていたと考えられる。筆者は元時代以来、有力な教派となっていた全真教において共有されていた祖師像が、明代宮廷で特定の仙人を描くときに採用されていた定型の一つではないかと想定している。筆者はかつて知恩寺所蔵の顔輝筆「蝦蟆鉄拐図」の主題をめぐって考察を進める中で、蝦蟆仙人は南宋の道士白玉蟾(1194−1228)を描いた姿である可能性を指摘した(注5)。顔輝の活躍時期や廬陵(江西省吉安県)という活動地域の諸問題を勘案し、― 474 ―
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