鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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知恩寺本の図像は顔輝の制作に初発性が認められるとした。すなわち、元以降、全真教の拡大や元曲などの普及とともに広まった鉄拐や蝦蟆仙人像に一定型を与えたのは顔輝の制作にさかのぼると考えている。なお、白玉蟾は江南の内丹道士であったが、彼の道脈をひく一派と華北で勢力を拡大した全真教が道統を結び、明代には全真教の北宗・南宗として整理されたため、全真教の祖師の一人としてかぞえられていた。明代宮廷内において、全真教は厚遇こそされなかったが龍虎山の正一教と双璧をなす有力な教派としての地位を築いていた。成化19年(1483)には憲宗の命によって、『全真群仙集』(以下、『群仙集』)三卷が編纂された。憲宗御製の序文には、工人に命じて繍梓させ、後世に内容をきちんと伝えるために画像をつくらせたというが、残念ながら原本は失われている。ただ、明代の抄彩絵本が中国国家図書館に現存しており、そこには三清や太上老君のほか、全真教の北宗・南宗それぞれの祖師の遊行像や坐像、或いは問答や仙異の場面の画像が附されている〔図5〕(注6)。王育成氏によると、現存する明代の彩絵抄本は成化19年版を底本につくられたものという(注7)。『群仙集』には、それぞれ白と金色のガマを連れた白玉蟾像と劉海蟾像が収められており、かつて指摘したように特に白玉蟾の図像は知恩寺本の顔輝画に一脈通じている(注8)。このような画像が劉俊の活躍期に重なる成化年間に、全真教の祖師図として宮廷内にあったという点はきわめて興味深い。また、少し時代は下るが16世紀の宮廷画家と目される劉敔の描いた「群仙図」(個人蔵)〔図6〕をみると、『群仙集』に描かれた祖師の姿と通じる複数の仙人像を確認できる。「群仙図」は4幅からなり、それぞれ本紙が縦163.2センチ、横102.5センチの絹本著色画である。各幅に2人ずつ合わせて8人の波上をゆく仙人を描いている。剣を背負い華陽巾を被る呂洞賓、衣の前を大きく開き目をむいた浅黒い肌の鍾離権は宋代以来の伝統をもつ姿である。呂洞賓と鍾離権を含む8人の仙人といえば通常八仙を想像するが、ここに表わされた仙人は戯曲や小説等で知られる構成とは大きく異なっている(注9)。彼らの脇に立ちガマを連れる仙人は白玉蟾と劉海蟾であろう。また、経巻を披くものは寒山、箒を手にとるものは拾得と思われる。破顔大笑する面貌表現はややグロテスクさを含み、東京国立博物館本の伝顔輝「寒山拾得図」以来の一定型である。なお、先にみた商喜の「四仙拱寿図」同様、仙人図の中に寒山拾得が流入してくる点については不詳だが、若干の私見を後述する。残る2人は、蓮をとり水瓶を提げると魚鼓を持つ仙人であるが、通常よく知られている八仙においては藍采和あるいは何仙姑が花籠を提げ、張果老が魚鼓をもつ。しかしながら、ここに描かれ二仙の風貌は、しばしば描かれるそれらの仙人の風貌とは一― 475 ―

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