3.「顔輝派」の展開致しない。まず蓮華を手にとる仙人像は、〔図4〕の「水陸斎図」にみるような道士の姿をしているが、人物を特定するような持物はない。一見すると〔図2〕の陳楠とされる仙人像に似ているが、比定の根拠となっている笠は持っていない。『群仙集』の彩絵の中では、全真教の開祖王重陽(1113−1170)がこれに類する姿で渡海する場面が描かれているが〔図7〕、霊芝を持つ姿であり、特定するにはやや躊躇される。ただし、陳楠であれ王重陽であれ、明代においては全真教の祖師にかぞえられていたという事実は留意しておきたい(注10)。一方、魚鼓を持つ仙人をみると、特徴的な髻を3つにわける特徴的な結い方をしている。複数の髻は童子にはみられるが、男性の結い方として描かれる例はそう多くない。特徴的な三髻は、王重陽の第一の弟子で第二代教主となった馬丹陽(1123−1183)の姿として知らており、『群仙集』にも見ることができる〔図8〕。馬丹陽とすれば、蓮華を持つ仙人は王重陽に比定すべきであろう。このように見てみると8人は師弟関係のある鍾離権と呂洞賓、王重陽と馬丹陽、それぞれがガマを持つ劉海蟾と白玉蟾、そして寒山拾得という対の構造をもっていると考えられる。寒山拾得を除く6人がいずれも全真教の祖師や教主として重要な存在であることから、これらの図像を単なる流行の仙人像としては捉えがたい。なお、禅の散聖であう寒山拾得が、全真祖師とともに描かれている点は、自己修養を理念とする全真教が思想や実践において禅宗と深い親縁性を持つことと関係があるかもしれない。寒山拾得ゆかりの天台山は、全真教南宗の張伯端が所縁を持つ地でもあり、明確に結論はできないものの全真教の図像に取り込まれる可能性は十分に有している。明代宮廷における全真教の図像の流入は顔輝流派とされる作品の成立に深く関与していると考えられる。永楽帝による北京への遷都によって、15世紀、宮廷と全真教団の本山白雲観が非常に近い距離であったことと無関係ではないであろう。この点については今後更なる考察が必要である。これまで明代顔輝派と呼ばれる作品の成立を考察し、その図像が全真教と深く結びついてあらわれたものであることを指摘した。明の宮廷の顔輝派として見出される特色が、仙人図など特定の図像に限られていること、宮廷画家が顔輝を学んだという記録を見出せないこともその傍証となる。しかしながら、明代の宮廷にあらわれた顔輝派の淵源には、やはり顔輝の存在があったのであろう。先にも述べたが、頻繁に描かれる蝦蟆仙人の図像は顔輝の制作に初発性がある。知恩寺本にみる仙人像は、元代において全真教の一部の祖師像を規定していったと考えられる。このように考えると、― 476 ―
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