鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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注⑴海老根聰郎 『元代道釈人物画』 東京国立博物館、1977年⑵海老根氏は顔輝の流派の作品として、顔輝筆と伝わる「釈迦三尊図」(京都・鹿王院蔵)や伝記不詳の蔡山筆「十六羅漢図」(京都・東海庵蔵)なども含めるが、ここには俗世的あるいは怪異的相の強い人物表現を顔輝イメージとして一元的にとらえた日本における受容の問題があると思われる。よって、ここでは明代における問題に限定して考察したい。なお、顔輝画の日本における展開については、佐藤康宏「顔輝・顔輝派の道釈人物画と日本における展開」(『新編名宝日本の美術27 若冲・蕭白』 小学館、1991年)、藤田伸也「顔輝筆蝦蟆鉄拐図とその日本における展開」(『日本美術史の水脈―辻惟雄先生還暦記念会編』 ぺりかん社、1993年)などを参照されたい。明代顔輝派の展開は、全真教祖師像の広まりと軌を一にしていたのではないだろうか。元の宮廷と深い関わりを持った全真教は、明の宮廷において信仰上は積極的に取り入れられなかったため、次第に市井の中で裾野を広げていく。全真祖師にかぞえられた仙人は雑劇や小説の中で活躍し、宗教性の如何にかかわらず民間に浸透していった。膨大な需要の中で仙人図は様々な解釈を生み、また版本の流布によって自由なヴァリエーションが創出され、明代宮廷で共有されていたような図像は徐々に規範性を失っていったと思われる。本報告書では、明代顔輝派と呼ばれる一群の作家(作品)に焦点をあて、特に仙人像を通して宮廷における顔輝イメージの成立と展開について考察してきた。仙人図にみる顔輝的要素が、明宮廷における顔輝受容とは必ずしもつながらないことを論証してきたが、これは明における「顔輝」という画家の重要性を否定するものではない。顔輝の名とともに作品の広まりは記録から確認でき、中国の好事家たちが所蔵していたばかりでなく、15世紀には日本や韓国にもその作品がもたらされた。安平大君のコレクションを著録した申叔舟の『画記』には、画仏のほかに「山中看書図」や「幽林採薬図」という主題が記されている(注11)。伝承作から道釈人物画家のイメージが強くなっているが、本来の顔輝の制作はより広く豊かなものであったであろう。未だ顔輝の実相は明らかにしがたいものであるが、後世におこった顔輝派という事象を追うことも、遡及的に画家の制作を輪郭づける一助になるはずである。課題はなおも多いが、本研究において得られた成果をもとに着実な考察を重ね、今後も検証を続けていきたい。― 477 ―結

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