― 482 ―鳥蔬菜図押絵貼屏風」(個人蔵)の落款の書体と同じことから、臨江寺本が宝暦10年ごろに制作されたという指摘もあり、この時期に制作された可能性は極めて高いと考えられる(注4)。画面上部には、「髑髏法界々々髑髏 仏祖不会露柱点頭 笠峰懶杜多」(髑髏は全宇宙の世界であり、意識の対象となるすべてのものは髑髏に集約される。優れた禅僧(仏祖)でも会得できないが、むきだしの柱(無情なもの)には会得できるのである笠峰懶杜多)という賛と署名が書される〔図3〕。印章は、「一鉢五湖」(白文楕円印)、「道倫之印」(白文方印)、「止談風月」(朱文方印)の三顆印である。賛者「笠峰懶杜多」は、天龍寺第221代住持で、洛西延慶庵に住した桂洲道倫(1714−94)のことである。『平安人物志』には「学者」として、明和5年版・安永4年版・天明2年版に名を連ねている。桂洲道倫に関して詳しくは後述する。若冲作品には臨江寺本の他、初期水墨画の「瓢箪・牡丹図」(細見美術館蔵)、晩年作「鶏頭蟷螂図」(個人蔵)にも着賛しており、長年の交流がうかがえる。また、臨江寺は、臨済宗の大徳寺派に属する寺院である。寛永7年(1630)に、のち大徳寺206世となる珪山宗璜が、不忍池の南岸に臨江庵を創建したことに始まり、寛文7年(1667)または延宝9年(1681)に現地に移り、臨江寺と改称したとされる(注5)。このような関東圏の、しかも江戸の寺院に、京都を活動拠点とした若冲の作品が伝来した事例は珍しいといえようが、その経緯は、残念ながら明らかではない。だが、少なくとも臨江寺の本山である京都の大徳寺を経由して伝わった可能性は十分に考えられ、大徳寺僧による賛が付された若沖画も現存している(注6)。画面については、前述の通り、髑髏二体だけが描かれた、実に簡素な作品である。しかしながら、細部には工夫が凝らされている。まず、描かれる髑髏二体は、同一の髑髏ではなく、それぞれ違った特徴を持つ〔図4〕。例えば、右側の髑髏が前歯三本に対し、左側は前歯二本である。頭頂部の形や継目部分の曲り具合、側頭部の影、鼻の穴の形など、意図的に違えて描いていることがうかがえる。髑髏全体は胡粉で彩られ、ある部分は厚く、ある部分は薄く塗り、また、縁は素地を残しながら内側に胡粉を施し、単色であっても繊細に立体感を出そうとしている。眼や鼻の空洞部分も、丁寧に薄墨で塗重ねられている。その他、髑髏の頭頂部と鼻骨の継目、前歯の根本あたりの重なり合う部分の影は、薄墨で表わされ、側頭部の凹凸による影は、墨と共に桃色が効果的に施される。部位によって影の色を変えながら、より質感を出し、本物に近づけようと描かれている。しかも、地面と接していると思われる部分には、細かな墨点による影が表現され、前述の影とは違えて表す。また、墨が薄く刷かれた背景全
元のページ ../index.html#492