鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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― 484 ―「動植綵絵」を見て感動した売茶翁が、若冲に「丹青活手妙通神」の一行書を与えた。しかしながら、現存する拓版画三点(宝蔵寺・西圓寺・個人蔵)を比較すると、刷りの違いが生じている。まず個人蔵本は、最も初版に近いとされ、陰刻が鮮明であり、印章の部分のみ朱で刷られている。それに比べて、他二点は白文の印章である。また、伊藤家の菩提寺である宝蔵寺本は、墨の付き方が最も斑があり、紙の大きさも他二点より若干大きい。少なくとも宝蔵寺本は、他二点と同時期に刷られたとは考えにくく、若冲没後に刷られた可能性も指摘されている(注9)。一方、西圓寺本は、墨の付き方は個人蔵本と同様に均一であるものの、個人蔵本よりも陰刻部分が不鮮明であり、印章部分も加味すると、個人蔵本より先行するとは考え難い。従って、拓版画「髑髏図」三点は、個人蔵本→西圓寺本→宝蔵寺本という、それぞれ異なる時期に刷られ、個人蔵本が最も宝暦10年に制作された状態に近いと考えられる。賛は、画面上部に、「一霊皮袋々々一霊 古人之謂」(「精神は肉体にあり、肉体は精神によって包括される」とは古人の謂われである)と付される。この「古人之謂」とは、歴代の禅師による語録のことだろうか。宋朝臨済宗の代表的な禅僧・大慧宗杲の語録『大慧普覚禅師宗門武庫』には、「即ち此の形骸、便ち是れ其の人、一霊皮袋、皮袋一霊」(注10)(精神と肉体は一体である)という大慧の頌(偈のこと)がある。売茶翁の賛は、このような「古人」の言葉を引用したとみられる。一方、臨江寺本の賛「髑髏法界々々髑髏 仏祖不会露柱点頭」(大意は先述)も、前述の大慧の師である圜悟克勤が編纂した、禅の公案集『碧巌録』「第二則趙州至道無難」の頌に基づいたと思われる。『碧巌録』はとくに臨済宗において尊重される仏教書である。その一節には、「髑髏識盡きて喜何ぞ立せん」(注11)(髑髏は意識はなくなっているというものの、喜怒哀楽の動力はどうして停止していよう、停止していない)とあり、「死中に生あり、生中に死あり」という世界観を詩的に表現したものである(注12)。前述の売茶翁のように直接的な引用ではないが、臨江寺本の賛はそのような世界観を踏まえた上で、賛者・桂洲道倫が新しい解釈を表したとみられる。桂洲道倫は、宝暦3年(1753)四十歳で天龍寺西堂となり、明和3年(1766)に東福寺の招請を受け、結制で『枯崖録』を講じた。それ以降、明和4年(1767)に相国寺で『夢窓録』、天明5年(1785)円覚寺で『仏光録』を講じた他、多くの請に応じて行化し、安永6年(1777)に天龍寺221世となった。また、著書も多く、『夢窓国師語録事苑』二巻、『黄龍書尺集事苑』一巻、『続祖苑事苑』一巻、『諸録俗語解』四巻等がある(注13)。つまり、臨江寺本の賛は、禅宗の典籍に精通した桂洲道倫によって、『碧巌録』を下敷に創作されたものであり、その禅的思想を若冲は視覚化し、表現し

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