― 486 ―との関わりをうかがわせる部分がある。たとえば、「十六夜雨 宿延慶庵 贈桂洲師」と題する詩の一節には「参禅暫寄薜蘿情」(注15)(暫く参禅して薜蘿の情に寄す)と、延慶庵で座禅をする様子が記される。さらに、「延慶庵訪 桂長老不遇」の詩には「到来禅榻間。兀坐待師還。」(注16)(到来す禅榻の間。兀坐して師の還るを待つ)とある。禅榻とは座禅を行う時に用いる腰かけのことで、座禅を組みながら、桂洲道倫の帰りをじっと待つ様子を記している。このように、桂洲道倫との交流を示す詩中には、彼らの親密さを感じさせるだけでなく、北海が「参禅の徒」として、延慶庵を訪れていたこともうかがえる。また、『続禅林僧宝伝』には、大覚寺法主が桂洲道倫を尊敬し、『大般若心経』全巻を延慶庵に喜捨した、とも記される(注17)。この大覚寺法主とは、『続禅林僧宝伝』では未詳とされるが、近衛家熈の八男で大覚寺門跡の寛深親王(1723−83)のことと思われる。大岡春卜筆諸家賛「墨花争奇」(紙本墨画二巻、個人蔵)は、寛深の注文によって制作されたもので、上巻の跋文を桂洲道倫が書す。さらに、その跋文には「大覚王の命によって制作された」と記している(注18)。それら以外に二人の関係に関するものは現時点では見当たらないが、少なくとも跋文が記される宝暦7年(1757)には、互いを知る関係にあったとみられる。「墨花争奇」の上巻の題字を書した直指庵の黄檗僧・無染浄善(1693−1764)も含め、同じ嵯峨に住まう僧として、寛深と何らかの交流があったと考えて間違いないだろう。その他、服部蘇門(1724−69)著『碧巌方語解』(明和6年[1769]刊)の序を桂洲道倫は同年8月「衣竇閑雲杜多」という署名で記している。服部蘇門は、儒学者で仏教や老荘思想に詳しく、西陣の織物業の家業を継がずに、儒学を教えていた人物である。著作は仏教に関するものが多く、署名に「蘇門居士服天游」と記すことから、深く帰依していたようである。この『碧巌方語解』もそれらの一つで、『碧巌録』に関する辞典のようなものと思われる。このように、上記の三名は、いずれも交友関係の中に仏教が絡んでいる。そして、桂洲道倫を慕っていたことが分かる。先述した通り、桂洲道倫は結制で招かれた際に講義を行うなど、当時活発化した禅宗寺院の復興運動に寄与したことは、これまで指摘されてきた(注19)。さらに、禅宗寺院内にとどまらず、文化人に対しても同様に、禅宗の普及活動を広く行っていたことが、上記に挙げた三名との関係からうかがうことができる。また、桂洲の著作が禅籍関係ばかりであるのも、多くの人々に禅宗を広めることを使命として、一貫して取り組んでいたからなのだろう。そのような人物に、「居士」であった若冲も感化された一人だったのではないだろうか。臨江寺本は、禅
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