鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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― 497 ―表現している《ロアンの時禱書》の挿絵は、教皇のアヴィニョン捕囚(1309−77年)とそれに続く教会大分裂(1377−1417年)を経験した教会のかつてない動揺期を終末的な状況として捉え、三位一体の顕現と庇護によってそうした状況を脱することを願う図像表現であると解釈することができるのではないだろうか。祈念画としての時禱書《ロアンの大時禱書》の「聖霊降臨」図像は他の作例には継承されていないが、表現主義的かつ終末を思わせる悲劇性をまとった表現は、傾向や程度は異なるにせよ〈ジアックの画家〉および〈ロアンの画家〉による作品群に共通する特質であると言える。ヴィルラ=プティは、〈ジアックの画家〉の造形に見られる終末的な響きが、ヨランドの時代に影響力が強かったフランシスコ会の精神性と合致したことが、彼らがアンジュー宮廷において成功した一因であると指摘し、また図像選択に際してはフランシスコ会士、おそらくはヨランドの聴罪司祭による助言があったことを示唆している(注28)。もしそうであったなら、前述のように《道徳聖書》の全頁大挿絵のうち「磔刑」のみが模写されていることも、そうした助言に基づくものであった可能性が考えられる。本来、《道徳聖書》は小挿絵部分のみを手本として用いたが、「磔刑」に描かれている『イエス・キリストの生涯についての瞑想』のエピソードがマリアの悲壮な心情を強く信者に訴えかけるものであったため例外的に採用されたのかもしれない。こうして、悲壮感に満ちた〈ジアックの画家〉と〈ロアンの画家〉の作品群は、ベリー公ジャンに仕えたランブール兄弟の先進的かつ洗練された作品群とも、パリを中心に活躍した〈ブシコーの画家〉や〈ベッドフォードの画家〉の優美な作品群とも異なる傾向を有する一群を形成して、1420〜30年代のアンジュー宮廷を彩ることになった。《美しき時禱書》を始めとするランブール作品を入手したヨランドではあったが、おそらく彼女はその手本と同じような祈禱書を求めてはいなかったのである。百年戦争による惨禍、キリスト教会の動揺といった不穏な社会情勢の中で、神による救済を日々願い祈る書物の挿絵として、共感や感情移入を促す終末的な悲劇性が求められたのであり、それを求めたパトロンが、直接の影響関係は指摘されていないとはいえ、有名なタピスリー《アンジェの黙示録》を制作させ所有していた宮廷であるという事実は象徴的である。そして、終末と死について個人的な感情移入をさそう図像の最たる例とも言える《ロアンの大時禱書》の「審判者の前の死者」〔図9〕(注29)は、後に《ルネ・ダン

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