― 522 ―景とは違おうともその夢を可視化したものが山水図なのである(注7)。周文の弟子・岳翁の晩年期(16世紀初頭)の山水図〔図2〕に、賛者・了庵桂悟は画中の景物を詳細に記している (注8)。その賛文は、画面の上部・中部・下部と移行しながら画中のモティーフをたどる。「某山必しも呉ならず、某水必ずしも越ならず」とことわりながら、「若耶渓」・「雲門寺」、蘇軾ゆかりの「西湖六橋」、王子猷ゆかりの「剡川」・「山陰」と江南の名所を挙げたにも関わらず、「灞■■■■橋の詩思」の故事を引いて、どこであるとも「摸すべきも 言ふべからず」という(注9)。了庵は、この山水図で特定の現実と定めて景観を表す必要はないし、詩想を促す山水図としては、場所を定めぬべきだという。山水図に求めるものが、実景らしさではなく、詩的な連想を誘発することにこそあるため、この画賛で五山文学がしばしば言及する文人たちである蘇軾や王子猷ゆかりの地を列挙したのである。この記述と図様の対応関係により、画面上部の険しい岩山の周辺に「若耶渓」があり、山の側の寺は「雲門寺」、中部の小島をつないでいる石橋が六つ連なっていずとも「西湖六橋」であり、下部中央の舟に乗る人物が子猷で、竹を側に植える茅葺きの四■■■■阿は山陰にある子猷の住まいという連想があることがわかる(注10)。実は、これほど画中の景物を叙述する画賛は五山文学でも珍しい。画賛を多く残し、岳翁や雪舟との親しい交流が知られる了庵は、自らの絵画愛好をこの画賛で吐露したのだろうが、当時の見巧者によるものだけに、これは画中のモティーフが喚起する文人や説話のイメージについて考察する手がかりになるだろう。 また、もう少し時代を遡るが、周文の弟子とみられる松谿による「湖山小景図」〔図1〕がある。15世紀中葉の東福寺僧、翺之慧鳳による画賛があり、入明時に見た西湖を想起していることが知られている。これには、六橋にあたるような橋はなく、前景の橋の先の四阿が梅で囲まれ、西湖の孤山に隠棲した林逋を連想したのだろう〔図1-2〕(注11)。また、これには渡明経験の自慢という意味合いが反映されているという(注12)。ほかに、やはり湖のほとりにある橋と四阿が描かれた伝周文筆「江山夕陽図」(1437年頃)の画賛は西湖周辺の江南の景を詠んでいることから、西湖とその周辺について、実際の景観とは異なっていても一定のイメージが共有されていたことが指摘されている(注13)。これらの例から改めて言えるのは、必ずしも六橋がそれらしくなくとも「西湖図」として成立するということである。豊かな湖水、寺院、茅屋、橋、舟、梅、柳が西湖イメージを喚起するのだ。その点で、文清筆「西湖図」(正木美術館蔵)も同様である。また、先述の岳翁の山水図と似たような湖畔の茅葺き屋根の四阿の文人に、林逋とも
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