― 535 ―なるモティーフの融合である。説法図の背景の宝樹の奥に経意絵の背景をなす松樹が配され、浄土と現実が同一空間として把握されている。第二はモティーフの敷衍である。画面上方に描かれた放射光をはなつ太陽は〔図9〕は、「雨中耕作」の本文にないが、おそらく天候を示す雨雲モティーフから敷衍して描かれたと推測される。第三はモティーフの特殊描法である。雨雲のモティーフを、水分を多く含ませた筆で泥を暈すように輪郭して表している〔図9〕。経絵においては通常、暈し技法は、すやり霞や仏菩薩の光背などに用いられるが、与田寺本では雨雲のどんよりとした陰を表現するのに応用している。また、巻第八〔図10〕においては、画面上方に「海難救済」が描かれるが、難波船の周囲に波しぶきを銀泥散らしで表現している〔図11〕。経絵における荒波の表現としては、銀泥線の波に筆先で銀泥を点じるのが普通であるが、与田寺本では水分を多く含ませた筆を振動させて銀泥を散らし、自然な波しぶき表現を目指したと思われる。これらモティーフの変化はすべて、経絵の画面を一つの空間として自然主義的に表現しようとする工夫としてとらえることができよう。特殊描法の比較(中尊寺交書経、絵巻)与田寺本においては、雨雲や海波などの自然モティーフに特殊描法が認められた。この特殊描法は、永久5年(1117)から元永2年(1119)にかけての奥書をもつ中尊寺交書一切経(注14)や大山■本においても確認できる。六十華厳巻第五十七〔図12〕には、暈し描法による雲霞表現が、大集経巻第二十二〔図13〕と大山祇本巻第八〔図14〕には、銀泥散らし描法による波しぶき表現がみられる。両描法とも中尊寺経や大山祇本の方が洗練され、表現効果を発揮している。このようなモティーフの特殊描法は絵巻作品にも認められる。伴大納言絵巻(注15)の中で有名な応天門炎上の場面〔図15〕においては、墨の暈し技法により黒煙を、朱の散らし技法により火の粉を描き、すぐれた火焔表現が達成されている。伴大納言絵巻をはじめとする平安時代後期の絵巻は、貴顕の発願のもとで宮廷絵師や寺院所属の絵仏師が制作し、主題となる説話の内容に応じて、表現に工夫が凝らされ、きわめて個性的な絵画表現が創出されている。そのような絵巻を手掛けた専門絵師と経絵の画師が、暈しや散らしの描法を共有しているということは、微細な事象ながら重要な意味を持つ。両者の関係はいまのところ不明であるが、経絵の画師も専門絵師と同じく、モティーフの自然な表現を意図して工夫を凝らしていたのである。但し、その表現の精粗・巧拙の差は、金銀泥と彩色という材質の違いをさし引いたとしても歴然としている。同じ経絵ジャンルの中尊寺経と大山祇本と与田寺本の間のは程度の差
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