― 536 ―であるが、経絵と絵巻の間の差はほとんど種の差といえる。この種の差は作者の技術の前提となる絵画意識の違いに起因すると思われる。2、成立環境(経絵の作者、法華講会)経絵の作者平安時代、仏画や彩色装飾経などに対して「美麗」「過差」という評価語が頻用され、史料に名をのこす宮廷絵師や絵仏師などの専門絵師がその制作を担っていた(注16)。一方紺紙金字経に関しては、数多制作されていたにも関わらず、評価語としては「常の如し」が唯一の例で(注17)、その作者に関して文献から確認できることは僅かである。この「常の如し」という評価語こそ、これまで検討を加えてきた与田寺本に認められた「定型」からの構図や画題やモティーフにおける微細な変化の集積とでもいえるような経絵様式の様相を言い当てているのではないか。このような経絵様式が成立した環境について、その作者の側面から考察したい。経絵の作者についてはすでに考察を加えたためその概要を示すにとどめる(注18)。経絵に表現の精粗・巧拙の幅が広いのは、経絵が、宮廷画師や経典専門の経画師から絵の素人にちかい僧侶に至るまで多様な作者に開かれたジャンルであったからと考えられる。経絵の大量生産された平安時代後期に経絵制作に関わったのは主に僧侶で、院政期には特化して経師とよばれるようになった。当時、紺紙金字写経制作は、天皇から庶民に至るまでの幅広い人々が関与する作善であり、経絵の作者は、発願者の意向を受けながらも、自らの作善としての内的要求にしたがい経典制作にあたっていたと推定される。法華講会次に経絵制作・受容の背景として、当時の人々の法華経信仰を導いた法華講会について触れておく(注19)。平安時代には、在家への平易な経説として法華八講をはじめとする講経が盛んにおこなわれた。とくに説法の巧みな僧が経典内容を平易に示す講経は、功徳を積むものとして人々に重要視された。講経のテキストである『花文集』(注20)においては、経文にはない日本のモティーフを取り上げて具体的に描写したり、卑近な例を用いて聴聞者の感情に訴えたり、主題を法華経だけでなく広く他の経典から融通的に取り入れたりしていることが認められた。経典内容の逐語的解説にとどまらない、様々な経典や世俗世界との融和的性
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