⑵ 福井利吉郎「中尊寺経絵略解」『中尊寺経絵』大和絵同好会、1938年10月。⑶ 須藤弘敏「平安時代の定型見返絵について」『佛教藝術』136号、1981年。⑷ 須藤弘敏「転写と伝承─延暦寺銀二本・仁和寺本系紺紙法華経について─」『國華』1319号、⑸ 小林達朗「東大寺善財童子絵巻の形成」『美術史』127号、1990年2月。⑹ 泉武夫「『清衡経』見返絵に関する若干の覚書」『中尊寺経を中心とした平安時代の装飾経に関する総合的研究(平成13・14・15・16年度科学研究費補助金【総合研究(A)(2)】研究成果報告書)』研究代表者興膳宏、2005年。⑺ 筆者は、平安時代の経絵の定型構図の原則から逸脱するものを「脱定型」として経絵研究にアプローチしている。拙稿「平安時代経絵の空間表現〜愛媛大山■神社所蔵の紺紙金字法華経并開結見返絵〜」(『筑紫女学園大学・筑紫女学園大学短期大学部紀要』第7号、2012年1月。⑻ 松岡明子「与田寺の絵画」(香川県教育委員会『与田寺調査 歴史博物館整備に伴う資料調査概要 ─平成7年度─』)参照。本稿は松岡氏の研究を踏まえ、実地調査にもとづく知見を基礎として成った。⑼ 与田寺は山号を医王山、院号を虚空蔵院という。『誉田寺虚空蔵院水主村大水寺由緒)』によれば、天平11年(739)、行基菩薩の開基になる法相宗寺院で、後に弘法大師の来寺により真言宗に改められ、寺号も神宮寺となったという。中興開基の増吽(1366−1453)以降隆盛を極め、応永19年(1412)に後小松天皇より「虚空蔵院」の院号を賜った。天正11年(1583)長宗我部元親の兵火により焼失するが復興し、藩主からの安堵を受けるなどして寺格を保ってきた。中村洋一「与田寺の歴史─『與田寺旧記』を中心に─」、注⑻前掲書。⑽ 『誉田寺虚空蔵院水主村大水寺由緒』「霊宝之事」条 「一 中将姫御自筆紺紙金泥法華経一部八巻并普賢観経一巻〈法華ノ開経也。〉観無量寿経一巻⑾ 『医王山旧記』「当院霊宝絵賛等事」条 「一 中将姫書写紺紙金泥法華経一部八巻并普賢観経一巻〈法華開経〉観無量寿経一巻〈法華 一 一寸八分観音 春日之作也 右法華経者御八講之転経也観音ノ像者 法華経一部悉ク説観音之門証ヲ故経ト与 本尊ト御寄附之有云々 勅書及料田 御寄附の綸旨等 天正年中為兵火焼亡云々也」⑿ 拙稿「佐賀高伝寺の紺紙金字法華経見返絵」『佛教藝術』224号、1996年1月。⒀ 紺紙金字法華経并開結、8巻、平安時代12世紀、愛媛大山■神社所蔵。⒁ 紺紙金銀字交書一切経、4269巻のうち4231巻に見返絵あり。平安時代12世紀、和歌山金剛峯寺⒂ 伴大納言絵巻、紙本着色、3巻、平安時代12世紀、東京・出光美術館所蔵、国宝。⒃ 平田寛「平安時代の画師と絵師」「平安時代の絵仏師」『絵仏師の時代』中央公論美術出版、― 538 ―2005年9月。かりやすく、また人物は清純可憐な趣をもっている。したがって、これを観る者は、おのずから親近の情を感ぜずにはおれなくなる。経典の学習、教化のために制作した仏教説話画として、このような画体はまことにふさわしいといえよう」(宮次男「経典説話画」解説、山根有三監修『日本絵画史図典』福武書店、1987年)〈法華ノ結経也。〉開結合十巻同筆同紺紙金泥也。」結経〉合テ十軸ほか所蔵、国宝。
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