1.祇園南海の中国絵画学習研 究 者:和歌山県立博物館 学芸員 安 永 拓 世はじめに江戸時代の中期から後期に各地で流行した日本の文人画(南画)は、本場中国の明や清の「文人」という概念が書物などで日本へもたらされたのを契機に、そうした文人にあこがれた日本の知識人や画家によって享受され、描かれた絵である。従来の日本の文人画研究では、江戸時代の日本に伝来した明清の絵画は限られていたとされたため、日本の文人画家の多くは、『芥子園画伝』などの画譜類から多くを学んだとみなされてきた。だが、ジェームス・ケーヒル氏による彭城百川(1697~1752)の研究に代表されるとおり、日本の文人画家の表現には、実際の中国絵画からの直接的な影響も少なからず指摘できる(注1)。ただ、こうした画家が、どのように中国絵画を摂取し、自らの画風に取り入れていったのかという具体的な過程は、充分に検討されていない。よって、本研究では、江戸時代の紀州で活躍した文人画家が、実見・所蔵した中国絵画を具体的に示し、その模倣とアレンジの過程が、いかに変化するかを考察する。江戸時代の紀州は、御三家の一つとして栄えた地域だが、祇園南海(1676~1751)、桑山玉洲(1746~99)、野呂介石(1747~1828)など、全国的にも著名な文人画家を輩出したことでも知られている。この三者は、南海が18世紀前半、玉洲が18世紀後半、介石が18世紀後半から19世紀前半にかけてと、その活躍時期が異なる点で意義深く、それぞれ同時期の画壇の状況を反映しているとも考えられよう。かかる見地から、本稿では、上記三者の中国絵画学習の様相を個別に考察し、そのうえで、三者の特徴を時代や地域との関連性の中に位置づけてみたい。南海の絵画制作については、古くから画譜類の影響が指摘されているが(注2)、実際の中国絵画からの直接的な影響を物語る作例をいくつか残している点でも重要である。たとえば、「天台石橋図」(個人蔵)や「五老峰図」(個人蔵、田辺市立美術館蔵)をはじめ、近年発見された「峰下鹿群図」(個人蔵)〔図1〕は、いずれも伝唐寅(1470~1523)筆「山水図巻」(個人蔵)〔図2〕の図様に基づくものであり、同様に、「美人石上読書図」(個人蔵)〔図3〕も、明の画家である陳洪綬(1599~1652)筆「隠居十六観図冊 第19図」(台北・国立故宮博物院蔵)と類似する(注3)。― 45 ―⑤江戸時代の紀州画壇における中国絵画学習の様相
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