― 545 ―こと、左隻中景の樹木が左右より引っ張られたような形態をみせることから、掛幅画からのモチーフの生々しい借用の痕と、左右両端の主景に重心を置く構図法に則ろうとしながらもその大画面構成に習熟していないこととを想像させ、その初発性について考えたくなる作例といえる。当時の作画方法は、「筆様」制作を基本とした。「筆様」制作とは、「夏珪様」「牧谿様」「玉澗様」といったように中国画師名を冠し、その画師らしい構図や用墨法に倣った画面を創出する作画方法のことである。大画面山水図における構成要素ないしモチーフの多くは、中国から舶載した掛幅画や画巻を中心とする画本に依拠したものと思われる。したがって、複数の構成要素をときに複数の画から寄せ集めないことには、大画面を構成し得るだけの量を享受できなかったものと思われる。香雪美術館本右隻主景にみる対峙する土坡と懸崖、さらにその間をジグザグと縫う小径、その奥に茅屋を覗かせる構成は、祥啓筆根津美術館「山水図」〔図3〕の構成を想起させる。祥啓は、鎌倉建長寺より上洛し、芸阿弥(1431〜85)のもと相府画庫の舶載中国画について深く学ぶとともに芸阿弥から多くを得たと考えられる。文明12年(1480)の芸阿弥筆根津美術館「観瀑僧図」〔図4〕は、3年間の画の修行を終えるにあたり、「国手」芸阿弥から祥啓へ伝法の証として渡された画であることが横川景三の賛により確認される(注13)。祥啓筆「山水図」の画面右端から大きく三角形に突き出した岩塊について、相澤正彦氏は、芸阿弥筆「観瀑僧図」の瀧が流れる岩塊の影響下に創出された可能性、もしくは正宗龍統の『屏風画記』が叙述する現在は失われた芸阿弥晩年期の屏風の春景の描写との近似からより直接的な典拠となる芸阿弥画が存在した可能性にも言及されている(注14)。正信筆「山水図」〔図5〕は、水平線の高さや単純な対角線構図の回避、色合い、流水が交互に深く振れながら遠景へと霞みゆく中景の描写について、祥啓画との関連性が指摘されている(注15)。この正信画と祥啓画の共通性は、両者の中心に立ち、御用画師である正信とも当然親しく接したであろう芸阿弥を介して摂取されたものと考えられる。しかしながら、正信筆「山水図」においては、山本英男氏により伝周文筆シアトル美術館「山水図」の主山や松樹、狩野派模本中の景徐周麟・横川景三賛伝周文筆「周茂叔愛蓮図」近景のテーブル状の土坡や、垣根や茅屋、その背後の竹林との関連性が指摘されており(注16)、単純に芸阿弥画からの影響だけでは語れないところがある。また、芸阿弥筆「観瀑僧図」の瀧が流れる懸崖にみるような『屏風画記』のいうところの「呀焉之洞」(注17)のヴァリエーションと考えられる超自然的な景物が芸愛筆「山水図」巻などで目を引く景物として登場する一方で、正信は好まず、明晰で簡潔
元のページ ../index.html#555