― 546 ―な画面を志向していたものと思われる。その方向性は、元信にも受け継がれている。香雪美術館本右隻第1扇においては、覆いかぶさるように突出する三角形の岩塊に代わり、正信筆「山水図」主山の左へやや迫り出した山容が元信筆頴川美術館「真山水図」の中景奥の山塊を経て、徐々に高さ減じ輪郭を隠やかに変容させながらもなおその形態の記憶を留めるような懸崖が据えられる。形態の記憶は、同様に、正信の主山に生える樹木の記憶をも引いてきたようである。そのために、正信画ではおそらくはるかかなたで高さを誇る樹木が、元信画ではすぐ崖下より聳える2本の松樹と奇妙な遠近を生み、背の低い草木に擬して登場する。同様の遠近の関係は、正信筆長林寺「瀧山水図」〔図6〕の松の巨木の後ろに聳える懸崖の松樹にもみてとれる。『屏風画記』の序文には、芸阿弥の失われた「屏十二曲」が「夏珪國本」を一年の歳月を掛け「人事を絶ちて摸」したものであることが記されている(注18)。山下氏は、芸阿弥の「屏十二曲」の画本となった既に失われた「夏珪國本」の図様を、断片的な模本類やそれを翻案することで創出された雪舟(1420〜1506頃)や芸愛の画巻類、室町時代後期の山水図から共通項を探索することにより、復元されている。さらにこの復元した「夏珪國本」が『御物御画目録』にみる相府コレクションを飾る一つとして「混沌とした夏珪認識の頂点」にあって、室町時代後期の山水図にみる特徴的な図様の多くがこの夏珪画に収斂することを明らかにされている(注19)。氏は、狩野派による摂取の例として伝元信筆フリア美術館「四季花木草花下絵山水図押絵貼」屏風の山水図〔図7〕を挙げ、モチーフがことごとく夏珪画に由来していることを指摘されている。さらには、あたかも15世紀の文献にみるやまと絵屏風に舶載中国画を掛け巡らせた鑑賞方法を想起させるような画面形式から、東山御物として座敷を飾っていた夏珪画が、象徴的に選ばれ、再構成された可能性を指摘されている(注20)。そうした画が、『君台観左右帳記』に象徴されるように東山御物が古典性を獲得してゆく時期(注21)に現出したのは興味深い。香雪美術館本右隻でも、夏珪画より転訛したと思しき景物が見いだせる。画面中央の中景から遠景さらには水景かなたの深景〔図8〕は、手前に布置された一角や背後の山々により華やかさが増しているものの、汀の輪郭や山麓の霞む山塊の構成に伝夏珪筆フリア美術館「山水図」巻〔図9〕(注22)からの影響が看取される。同様に、元信筆東海庵「瀟湘八景図」〔図10〕の洞庭秋月の門と楼閣と周辺の木々、さらにはその奥の大山もフリア本に似通った場面を見出し得る。また、伝周文筆シアトル美術館「山水図」と同じ画本に基づいた可能性のある正信筆「山水図」のテーブル状の土坡や茅屋について、ともに夏珪画に学んだ可能性が指摘されている(注23)。
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