4.山水図から花鳥図へ― 547 ―香雪美術館本右隻は、伝周文筆山水図に共有されていた構図や構成、モチーフと、芸阿弥から摂取した夏珪画のモチーフを一定の単位ごとに選択し、大画面に再構成した図といえる。辻氏には正信と元信の影響関係を具体的作品に基づき関係づけることが容易ではないことを言及されているが(注24)、それらはやはり直接的には正信からもたらされたものに多くを負っているものと思われる。その構成は、伝周文筆詩画軸から松谿や岳翁の掛幅画に受け継がれた高さと深淵さを持つ空間性に、おそらくは芸阿弥が夏珪画巻から学び正信へと受け継がれた、細部まで克明な近接景と(注25)、低い視点に立つ平遠的な水平線を設置する、横長の画面形式を最大限活かした空間性と景物とを加えたものである。元信の香雪美術館本右隻は、正信筆「山水図」に比して、景物が限定され、より明瞭な輪郭線を示し、瑞々しくも整理された墨調をみせる。受け継いだものに長く親しみながらも、均衡と安定を失わない点に、元信の本領が看取される。同時に、あくまで大画面楷体山水図においては室町時代後期の完成された山水図の延長線上にあろうとした点に、中世末期にあった元信の性格を見出し得る。正信筆「山水図」は、ある一定の単位の集積によって形成されている。一定の単位とは、構成要素としてそれ以上分解する必要のない、例えば岩塊とそこから生える樹木や、垣根と茅屋とその背後の竹林、後方に聳える山塊、水景のかなたに霞む遠景などを指す。この単位については、画本と作画の関係、さらには当時支配的であった筆様制作の作画方式を考える上で意味深い。『蔭凉軒日録』文明17年(1485)10月から翌18年(1486)4月にみる足利義政の東山殿持仏堂の障子絵制作に関する記事は、正信による「筆様」制作の具体的な作画方法が判明する史料である。持仏堂の障子絵に画く画題を「十僧図」に決定した後に馬遠様か李龍眠様か筆様を協議するとともに、画本として相府画庫より李龍眠筆文殊維摩図と李迪筆牛図二幅の三幅対や李龍眠筆老子渡関図三幅対を、浄土宗方より九品曼荼羅を取り寄せていることが窺える(注26)。注目されるのは、画師だけでなく施主においても、「李龍眠様」の「筆様」制作を行うにあたり、画題と図様、筆法とが必ずしも不可分に摂取されなくても構わないとの認識を共有している点である。すなわち、前提となる東山御物の中国舶載画の図様や構図、筆法との厳密性を、翻案する画師はもとより享受者も寛容に捉えていたことが窺える。鷗斎筆「西湖図」屏風の款記「以牧渓之墨心」(注27)は、図様と筆墨法とを分解して援用できたことを示唆している。例えば、同時代資料より当時「夏珪様」と認識されていたことが明らかな延徳2
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