鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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― 548 ―年(1490)の小栗宗継筆旧養徳院「山水図」襖(注28)においても、夏珪画に厳密でないことは既に指摘されている通りである(注29)。この画本からの図様や構図、筆法の解体と、それらの大画面での整合が、枠組みとしての構図の固定と筆墨の規格化を助長したものと思われる。元信晩年期の霊雲院方丈室中「四季花鳥図」襖中特に「瀑布松鶴群禽図」4面は、元信の画業の到達点を示す作品である(注30)。豊かな水を湛える瀑布を中心に、鶴の宿る松樹と滝壺から立ち込める雲煙の湿潤な大気に導かれ、水景を囲む花鳥の景が展開する。そこにみる松樹や芙蓉、柳に燕、芦雁、双鳩、竹林に土坡といったモチーフは、伝牧谿による水墨花鳥図や台北故宮博物院「写生」巻から摂取されたことが指摘されている(注31)。足利義満以来の御物の蔵品目録である『御物御画目録』は、総数279幅中3分の1以上を占める牧谿画の中でも花鳥獣が多くを占めたことを示し(注32)、当時の牧谿画への偏愛が窺える。行体花鳥図は総じて牧谿画にその淵源を持つが、それは『御物御画目録』中に表れるような画本として提示し得る牧谿筆花鳥図の数と無関係ではないように思われる。山下氏は、応仁3年(1469)の能阿弥筆「花鳥図」屏風が牧谿筆大徳寺「観音猿鶴図」の背景を借用した舞台装置に、伝牧谿画に由来するモチーフを配した「牧谿尽くし」であることを明らかにしている(注33)。相府画庫の管理者たる能阿弥だからこそ成し得た作画であったといよう。相府画庫において牧谿作品の中心に位置したであろう「観音猿鶴図」は、牧谿画の象徴として本作画において欠かせない構成要素でありながら同時に、「観音猿鶴図」に由来する背景は、横に広い大画面の中で確たる土台となるにはやや心もとないように思われる。後年の元信の霊雲院画においても、構成要素は基本的に伝牧谿画群から摂取されており、行体花鳥図すなわち牧谿という図式は長く保持されたものと思われる。相阿弥(?〜1525)は元信と共作した大仙院画〔図11〕において、丸みを帯びた山容と山肌を撫でるような同心円の皴による行体山水図を画いている。高克恭らの画に通ずるが、狩野常信模雪舟筆「流書手鑑」中「牧渓」とされる山水図〔図12〕が明らかに牧谿画の模本ではないように、相阿弥もまた牧谿を意識していたものと思われる。行体花鳥図が牧谿画に由来するモチーフのみで構成し得るのに対し、行体山水図においては鷗斎筆「西湖図」屏風の款記が示唆するように、それを造成できるだけの量の具体的な牧谿画が提供できなかったと思われる。周文の流れを汲む室町時代後期の大画面楷体山水図が、一定の単位ごとに抽出した景物を水景を囲む一定の枠組みの中に再構成することによって生み出せることに、何

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