よりも画師たちは自覚的であったはずである。元信が大画面楷体山水図に触れた時点で既にその作画方式は定まっており、元信は構成要素を整理し、極めて簡潔な画面を現出した。舶載山水図の大画面楷体山水図への援用と、舶載花鳥図の大画面花鳥図への援用とは、異なる様相を呈す。構成要素を提供できる量がそれぞれ異なるとともに、山水図ならば楷体へと振り分けられる馬遠夏珪、花鳥図ならば行体の牧谿と、それぞれの画題において多くを提供できる用墨法も異なった。さらに舶載山水図においては、大画面山水図の構成要素としてそれ自体で空間性を有するような一定の単位で抽出されるが、舶載花鳥図は近接した花鳥に焦点を合わせているために、大画面を支え得るような空間性を得難い。その意味で、山水図と花鳥図とは、大画面に援用される際の前提が異なっていたといえる。天文17年(1548)の元信筆「花鳥図屏風下絵」〔図13〕(注34)において反復される屏風下絵に花鳥を支える土坡と凝固した一定の型を見出せるのは、霊雲院を経た元信自らが弟子たちのために規範化を推し進めたことによるものであり、大画面山水図と同様に一定の単位を入れ替えても揺るがない枠組みを規定したものと思われる。舶載中国画に代わる画本に自らがなるためであり、用墨の面でも「画体」として集約される。画本が提供したものの偏りが、完成された大画面楷体山水図にはない整合を促進し、新たな画面の創出に繋がったものと思われる。しかしながら、辻氏が指摘されるように、霊雲院「瀑布松鶴群禽図」を見る限り、元信自身においてはあくまでも中世的な「筆様」制作の意識を持ち続けたものと思われる(注35)。5.結文中世末期にある元信が、中世らしいものを如何に脱ぎ捨てて近世を引き寄せるのか、大画面山水図と花鳥図を大観的に俯瞰することによって考察することを試みた。大仙院「四季花鳥図」襖から霊雲院「四季花鳥図」襖への30年の懸隔を埋める花鳥図は存在しないが、大観的な視野に立って、大画面山水図を並置することによって、相互補完的に理解を深めることを目指した。霊雲院画群が元信の画体成立を幸運にも端的に示すために見えにくくなっている、それぞれの画題がそこにたどり着くまでの複雑な様相を示すことを目指した。大画面楷体花鳥図や雪舟画との関係性、大画面行体山水図、画体、時代背景、翻って膨大な伝元信画への考察が及ばなかったが、さらなる考察を深めたい。― 549 ―
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