とりわけ、伝唐寅筆「山水図巻」は、全7図のうち4図に南海画への影響が見られ、また、巻末の南海自身の跋文から、南海が実見したとわかる点で意義深い。さらに、伝唐寅画と、それに基づく南海画を比較すると、両者の図様は多くの点で一致するが、余白を増やしたり、一部の図様を移動させたり、点苔を増殖させたりといった南海独自のアレンジが、わずかながら判明するのである(注4)。一方、「美人石上読書図」は、たしかに陳洪綬画と類似するが、近年、より直接的な影響を示す作例が出現した点でも注目される。それは、上野若元(1668~1744)筆「花鳥・人物図押絵貼屛風」(個人蔵)のうちの一部〔図4〕で、主題こそ異なるものの、女性の形態などには強い関連性が想定されよう。そもそも、南海は、泉佐野の豪商・唐金梅所(1675~1738)に宛てた書状の中で、自らを黄檗画僧・河村若芝(1638~1707)の弟子と述べ、若芝の弟子である上野若元とは同門だから、梅所が所蔵する若元の屛風を拝見したいと頼んでいる(注5)。この「花鳥・人物図押絵貼屛風」が、梅所の所蔵していた屛風かは不明だが、いずれにせよ、若元も、「美人石上読書図」とよく似た唐美人図を描いていたのである。また、南海自身の作例とは別に、後世の模写によって南海が実見した中国絵画が明らかになる場合もあり、興味深い。たとえば、岡延年(1740~1811)筆「明妃出塞図巻写」(和歌山県立博物館蔵)〔図5〕も近年発見された作例で、巻末の奥書から、備中国倉敷出身の岡延年なる画家が、ある人の所蔵していた「明妃出塞図」を享和2年(1802)に模写したとわかるのだが、注目すべきは、その原本に南海の跋文があり、延年が、南海の跋文も精巧に模写している点である。南海の跋文の模写は、明らかに南海の書風を伝えており、原本が南海自筆であったことをうかがわせるし、南海の詩文集『南海先生文集』巻四には、「題昭君出塞圖」としてこの跋文の詩が掲載されている。原図の「明妃出塞図」が、南海の模写であったのか、中国絵画であったのかは、現段階では不明ながら、ともかく、これまで詩文でしか知られていなかった南海実見の「明妃出塞図」の図様や表現が、具体的に判明した点で貴重な情報となる。このように、南海が実見した中国絵画の事例は、伝唐寅筆「山水図巻」が唐寅の真筆ではなく、後世の写しか擬古作とみられ、文徴明(1470~1559)の流れをくむ明末清初の文派の作ではないかと指摘される点からも明らかなように(注6)、いずれも良質なものではなかったようだ。しかし、かかる南海の作例からは、原図の中国絵画の影響を強く受けながらも、そこに独自のアレンジを加えようとする志向の萌芽が確認できる。さらに、こうした学習のプロセスに、上野若元のような黄檗画僧の作例の介入が、具体的に想定された点も重要といえよう。― 46 ―
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