鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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― 556 ―とんど出ていなかったという。代わりに、当時盛んだった学生運動には熱心に参加し、アメリカ大統領補佐官の来日を聞きつけると、羽田空港まで駆けつけて空港ロビーの占拠に加わるほど血気盛んな学生であった(注3)。久保田成子が上京した翌年の1957年、前衛舞踊家であった叔母の邦千谷(本名・久保田芳枝)が駒場に舞踊研究所を開設した。1930年代にドイツへ渡った舞踊家・邦正美に師事し、舞踊の世界に心酔していった千谷は、独自の世界観で舞踊の世界に新風を吹き込んだ人物である(注4)。その邦千谷舞踊研究所には、当時最も先鋭的な活動を行っていた若手芸術家たちが集まっており、久保田の表現世界を広げるきっかけとなった。例えば、東京藝術大学音楽学部楽理科の学生だった水野修孝が千谷の研究所でピアノを教えるアルバイトを始めたことで、彼が小杉武久らとともに結成した〈グループ・音楽〉のメンバーが出入りするようになったという(注5)。そして、次第に様々な催しが行われるようになり、1960年9月26日に邦千谷舞踊研究所で行われた〈二十世紀舞踊の会〉による公開実験第三回「舞踊と音楽―その即興的結合」は、〈グループ・音楽〉の実質的なデビュー公演となった(注6)。その後も「動きと映像のゼミナール」(1962年7月21日〜8月26日)、「ダンス・アクション2 邦千谷舞踊研究所公演」(1963年6月28日)、「Sweet16」(1963年12月3〜5日)、「題名のない12月の舞踊会」(1964年12月12〜13日)といったイヴェントで、千谷と〈グループ・音楽〉は共演している。この他にも、過激なパフォーマンスで知られる風倉匠が頻繁に出入りし、また、同研究所が事務局となっていた〈二十世紀舞踊の会〉には大野一雄や土方巽、細江英公らが参加するなど、邦千谷舞踊研究所はまさに60年代の前衛芸術家たちの拠点であったといえる(注7)。その叔母のもとに居候をしていた久保田成子は、当然ながら、彼らの新しい芸術表現を目にし、強い刺激を受ける。そして、草月ホールで1963年に行われた公演「Sweet 16」には〈グループ・音楽〉のメンバーとともに出演するなど(注8)、次第にパフォーマンスに傾倒していった(注9)。この頃の久保田は、大学を卒業し、品川区立荏原第二中学校で美術教師として働いていた。その傍ら作品制作を続け、新進芸術家として発表の機会をうかがっていた。そんな折、千谷の舞踊研究所で知り合った〈グループ・音楽〉のメンバー、小杉武久の紹介で、新橋の内科画廊を知る。内科画廊は、医学部のインターンだった宮田国男が急逝した父の内科診療所の使い道に悩んでいたところ、幼友達の中西夏之に勧められ、若い芸術家たちのための貸し画廊として1963年にオープンしたばかりだった(注

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