― 557 ―10)。小杉らを通してすでに〈ハイレッド・センター〉を知っていた久保田だったが、内科画廊最初の催しとなった彼らの「第6次ミキサー計画・物品贈呈式」や、続く和泉達、三木富雄、篠原有司男の個展、中原佑介企画の「不在の部屋展」などに大いに刺激を受け、自らも内科画廊でデビュー展を開催したいと思ったという(注11)。そして、内科画廊の19番目の展覧会として、久保田成子の初個展 「1st. LOVE, 2nd. LOVE... 久保田成子彫刻個展」が1963年12月1日から7日まで開催された〔図2〕。自らの個展の様子について、次のように述懐している。1958年9月に発足した草月アートセンターおよび草月会館ホールでは、勅使河原宏が中心となって、1960年代には現代音楽や映像の実験場として活発な活動が行われていた。1962年3月にアメリカから一時帰国したオノ・ヨーコは、5月24日に日本で初めての個人リサイタル/展覧会「小野洋子作品発表会」を草月会館ホールで上演、その後もジョン・ケージとデイヴィッド・チューダーの作品やナムジュン・パイクの作品にパフォーマーとして出演するなど、草月アートセンターの主催するイヴェントに「私は、画廊の床から天井まで、ラブレターの切れ端を積み上げ、その上に白い布を敷き、メタルのパイプを配置した。会場を訪れた人は、紙くずの山をよじ登らなければならない。いわゆる参加型のパフォーマンス、環境芸術であった。」(注12)展覧会のタイトルには「久保田成子彫刻個展」とあり、白い布で覆われた紙くずの山の上には、確かに金属製の立体物が展示されていた〔図3〕。しかし、上記の記述にもあるように、久保田は展示された作品を「参加型のパフォーマンス、環境芸術」と捉えていた。つまり、単なる彫刻作品を展示するためにあえてこうした空間を作り出したのではなく、紙の山の頂に置かれた物体に到達するまでの、観客の行為そのものを「参加型のパフォーマンス作品」として提示したのである(注13)。彫刻家として出発した久保田が、パフォーマンスという新たな表現に挑戦した最初の作品だった。しかし、この展覧会を取り上げた批評は一つも無く、無反応な日本の美術界に絶望した久保田は、これを機に日本を離れる気持ちを強める。それを後押しするもう一つの要因が、ナムジュン・パイクとの出会いであった。2.フルクサス、ナムジュン・パイクとの出会い
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