― 558 ―度々参加していた。1962年10月の東京文化会館でのケージとチューダーのコンサートを観客として目の当たりにした久保田は、その公演に感銘を受けている(注14)。その後、1963年に友人の塩見允枝子とともに渋谷のオノのアパートを訪れた際に、ジョージ・ブレクトらのイヴェント・スコアを目にし、フルクサスの活動を知ることになる(注15)。こうした経験が、同年12月の久保田の内科画廊の個展作品に影響を及ぼしていたことはほぼ間違いないだろう(注16)。まさにその同年に、日本の前衛芸術家たちの間ですでに話題となっていたナムジュン・パイクが来日し、翌1964年5月29日に草月会館ホールで「白南準作品発表会」を開催した。この公演には〈グループ・音楽〉のメンバーたちも出演していたが、久保田は観客席でパイクのパフォーマンスを目にし、大きな衝撃を受けたと語っている(注17)。生卵を壁に投げつけ、ピアノを叩き壊し、頭髪に墨汁をつけて線を描き、挙句の果てには、自らが履いていた靴に水を注いで一気に飲み干すという、パイクの破壊的な行為はまさに反芸術の極みであり、「既存の秩序に対する抵抗や反抗のみが、自分の芸術の正しい道だ」と信じていた久保田にとっては、彼の表現こそ「芸術的理想郷」と映ったのだった(注18)。このように、久保田は東京で〈グループ・音楽〉や〈ハイレッド・センター〉をはじめとするパフォーマンス・アートと出合い、オノやパイクを通してフルクサスに心酔していった。そして、自分の目指す新しい表現が正当に評価される可能性を求めて、1964年7月にアメリカへと旅立ったのである。3.渡米―フルクサスでの活動ニューヨークに到着した久保田と塩見を迎えたのは、フルクサスの創設者、ジョージ・マチューナスであった。彼の住んでいたキャナル・ストリートのフルクサス本部には、すでに渡米していた靉嘔やパイクをはじめ、ラ・モンテ・ヤングやジョージ・ブレクト、ロバート・ワッツなど、世界中のフルクサス・アーティストたちが集まっていた。そして、マチューナスが私費で出版していたマルチプル作品を販売する「フルクサス・ショップ」があり、パフォーマンスも行われていたというこの場所で、久保田たちはメール・オーダー用のオブジェ制作を手伝うなど、フルクサスの活動に参加し始めた。この頃の久保田の作品は、既成品を使ったオブジェやマルチプルが中心であり、タイトルも《フルックス・スーツケース》〔図4〕や《フルックス・メディシン》〔図5〕と名付けられているように、その作風はフルクサスそのものだった。一方、パイクはこの頃すでにテレビモニターを使った作品に着手し始めていたもの
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