鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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― 559 ―の、フルクサスのイヴェントやシャーロット・モーマンとの巡回公演など、むしろパフォーマンス活動を精力的に行っていた。そんなパイクと親密な関係になっていた久保田は、1965年7月4日にニューヨークで開催された「パペチュアル・フルックス・フェスト」で衝撃的なパフォーマンスを披露することとなる。《ヴァギナ・ペインティング》と名付けられたその作品で、久保田は短いスカート姿で舞台に上がり、下着につけた筆をバケツに入った赤い絵の具に浸し、しゃがんだ姿勢で抽象画を描いた〔図6〕。そのパフォーマンスはフルクサスのメンバーたちにさえ大きな衝撃を与え、淫らだという批判の嵐を浴びたという(注19)。久保田はそれ以降、自らのパフォーマンス作品を発表することはなかった(注20)。この後、久保田が卒業後に傾倒していたイヴェントやパフォーマンスに参加することはなくなり、フルクサスのオブジェ制作をさらに進めている(注21)〔図7〕。この頃の作品に小品のオブジェが多いのは経済的な理由もあるだろう。しかし、それにも増して、パフォーマンスに背を向けたものの、以前のような伝統的な彫刻制作へと回帰することはもはやできなかったのではないだろうか。そうした模索の中で、久保田は新しいメディアを手に入れる。同じ部屋で作品を制作していたパートナーのパイクは、1965年にソニーの小型カメラを手に入れ、ヴィデオ作品を撮り始めていた。それに影響された久保田は、1970年にパイクの共同制作者であった阿部修也の妻に依頼して、ソニーのポータパックをアメリカよりも安い日本で購入した。それまでのオープンリールのVTRに比べて飛躍的に携帯しやすくなったこの機種の開発によって、ヴィデオ撮影が女性でも手軽にできるようになった。こうして、ライブによるパフォーマンスとは異なるものの、動きのある映像を取り入れることによって、時間性を包含した表現が可能となったのである。久保田がヴィデオ作品の制作を始めた時期、アメリカではヴィデオ・アートをプロモートするための拠点が構築され始めていた。1971年にニューヨークに設立された「Electronic Arts Intermix (EAI)」は、前年まで最先端のヴィデオ・アートを自らの画廊で紹介していたハワード・ワイズが中心となり、ヴィデオ・アートの支援を目的として活動を開始した。また、同年にはメディア・アートとパフォーマンスを中心に支援する「The Kitchen(当初はThe Electronic Kitchen)」が設立されるなど、久保田が拠点とするニューヨークにはヴィデオ・アートを後押しする環境が整い始めていた。こうした状況の中で、彼女は1972年に3つのヴィデオ作品を制作し、同年に開催したアメリカでの初個展で、そのうちの1点を発表している(注22)。これによって、久保田成子はアメリカで「ヴィデオ・アーティスト」として認知されることとなった。

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