2.桑山玉洲の中国絵画学習玉洲の研究においても、初期の作例とみられる「蘆間舟遊図」(個人蔵)に、中国の明末に刊行された『図絵宗彝』という画譜との関連性が指摘されるほか、「鯉魚図」(和歌山県立博物館蔵)や「猛虎図」(和歌山県立博物館蔵)には、享保16年(1731)に来日した中国人画家・沈南蘋(1682~?)や彼の画風を継承した南蘋派と呼ばれる画家たちからの影響が、さらに、「猛虎図」や「桃李貓奴図」(個人蔵)では、朝鮮絵画との類似性も注目されている(注7)。また、玉洲が画中に記した款記により、「桃李貓奴図」は南宋の毛益、「花卉図巻」(個人蔵)は明の周之冕(1521~?)、「浅絳山水図」(個人蔵)は元の黄公望(1269~1354)、「富岳山水図襖」(念誓寺蔵)や「那智山・熊野橋柱巌図屛風」(念誓寺蔵)は五代の董源などの中国人画家に倣ったことも判明する(注8)。かかる作例は、玉洲が接した中国絵画を、ある程度、類推させてくれるものの、玉洲の中国絵画学習の過程を、より具体的に明らかにしたのは、近年発見された玉洲筆「渡水羅漢図」(和歌山県立博物館蔵)と、玉洲旧蔵書画だろう。まず、玉洲筆「渡水羅漢図」〔図6〕は、その款記から、安永2年(1773)28歳の玉洲が、江戸の宿場のような場所で、中国・唐の李思訓(653~718)の画法に倣って描いたとわかる興味深い作例だが、重要なのは、逸然性融(1601~68)筆「羅漢渡水図巻」(神戸市立博物館蔵)〔図7〕と、人物の図様がかなり一致し、かつ、画面形式や構図・表現は大きく異なる点である。逸然は、明末の中国から長崎へ渡来した黄檗画僧で、こうした作例を通して、玉洲が中国絵画の図様を学び、そこに玉洲なりの改変を加えたとも想像されよう(注9)。一方、玉洲旧蔵書画も、ごく近年、玉洲所用の印章や画材道具とともに玉洲の分家筋の家から一括で見つかったもので、中国書画を多く含む点で大きな意味を持つ。そもそも、玉洲が収集した中国書画については、玉洲著『桑氏扇譜考』(個人蔵)という扇面書画のリストから、文字情報としては一部が知られていたが、今回確認された玉洲旧蔵書画は、玉洲が実際に収集した書画や、収集の志向を明確にした点で、きわめて貴重な発見となった(注10)。たとえば、玉洲旧蔵書画に含まれる「墨梅図」(個人蔵)〔図8〕を描いた蔡簡は、中国の明末清初に活躍した画家だが、長崎の黄檗宗寺院と関連のある人物でもあったらしい。また、「梅竹白頭翁図扇面」(個人蔵)〔図9〕を描いた鄭培や、「山水図扇面画帖」(個人蔵)〔図10〕の伊孚九(1698~?)、「唐子遊図」(個人蔵)を描いた諸葛晋や、「蓮実翡翠図」(個人蔵)〔図11〕の筆者の費漢源、「墨竹図」(個人蔵)の李用雲、― 47 ―
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