鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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注⑴ 久保田の母・文枝は東京芸術大学音楽学部を卒業しており、彼女の姉妹は全員、芸術系の道へと進んだ。その父で成子の祖父にあたる久保田彌太郎は南画家であり、妻のトシは中村彝など芸術家のパトロンとして知られる柏崎の洲崎家の出身であった(中山孝子「久保田芳枝(邦千谷)と家族のこと」、邦千谷舞踊研究所編集委員会編『凛として、花として』、アトリエサード、2008年、14−16頁)。一方、父・隆円は上越市三和村の寺の住職の息子だったが、東京大学経済学部を卒業したエリートだった(久保田成子、南禎鎬『私の愛、ナムジュン・パイク』、平凡社、2013年、9頁)。⑵ 富井玲子訳「久保田成子の若き日々 マニュエラ・ガンディーニとの会話」、ムディマ・ファンデーション ミラノ編『不協和音─日本のアーティスト6人』[豊田市美術館展覧会図録]、ムディマ・ファンデーション ミラノ、2008年、31頁。⑶ 久保田成子オーラル・ヒストリー、手塚美和子によるインタヴュー、2009年10月11日(URL: ⑷ 邦千谷の活動については、邦千谷舞踊研究所編集委員会編、前掲書を参照。⑸ 川崎弘二編著『日本の電子音楽 増補改訂版』、愛育社、2009年、272頁。⑹ 1961年9月15日に草月ホールで開催された「即興音楽と音響オブジェのコンサート」が「〈グループ・音楽〉第1回公演」と名付けられていたことから、これが公式なデビュー・コンサートとされている。塩見允枝子『フルクサスとは何か』フィルムアート社、2005年、64頁。/黒ダライ児『肉体のアナーキズム』グラムブックス、2010年、147頁。⑺ 1962年の夏には〈二十世紀舞踊の会〉企画、〈グループ・音楽〉協力による「動きと映像のゼミナール」が様々なプログラムで毎週開催されたが、久保田はそこで〈グループ・音楽〉のメンバーと出会ったと回想している。邦千谷舞踊研究所編集委員会編、前掲書、76頁。⑻ 「Sweet 16」では、邦千谷、小杉武久、刀根康尚、水野修孝、塩見允枝子、飯村隆彦、高松次郎、― 560 ―おわりに日本を離れて9年目にして、ようやくアメリカで初めての個展を開催した久保田成子は、もはや彫刻家ではなく、フルクサスでもなかった。「ヴィデオ・アーティスト」として自らを表現し始めた一方で、それは、パートナーであり、憧れの存在でもあったナムジュン・パイクと、アーティストとしてライバルになり、比較され続けることを意味していた。そんな彼女が、パイクの影に隠れて消えてしまうことなく、今日まで美術史上にその名を残すことができた最大の要因は、「ヴィデオ彫刻」という新たな表現形式を生み出した点にある。その久保田成子の創作の原点には、1960年代の日本の前衛芸術運動とフルクサスが深く影響していた。本稿では、そうしたパフォーマンス・アートへの傾倒に加え、70年代のアメリカの環境が、彼女にヴィデオ作品を生み出させる契機となったことを示唆した。彫刻からパフォーマンス、そしてヴィデオへ─久保田の表現の進化を知ることが、彼女の「ヴィデオ彫刻」の理解にとって重要な鍵となるだろう。www.oralarthistory.org)。

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