⒂Midori Yoshimoto, Into Performance: Japanese Women Artists in New York, New Brunswick, NewJersey and London: Rutgers University Press, 2005, p. 146. 邦千谷舞踊研究所編集委員会編、前掲書、76頁。同年、久保田はマチューナスに「1. A Beehive」「2. A drop of water」「3. A blue love」という3つの詩的なインストラクションを書き送っている。これは久保田にとって、初めてのフルクサス作品といえる。Ibid., pp. 171−172.■ 《ヴァギナ・ペインティング》について訊かれた久保田は、次のように答えている。「でもあんなのはその、戯れみたいなもんで。自分を彫刻家と思ってたから。ちょっとこの人たちと違う― 561 ―⑼1963年の読売アンデパンダン展に出品したと久保田成子本人が語っているが、どのような作品を出品したのかは未確認(手塚美和子によるインタビュー、前掲サイト)。なお、同展覧会に小杉武久が出品したとされる《チェンバー・ミュージック》のナイロンの寝袋は、恋人であった久保田成子が制作したものである。このため、パフォーマンスが多発した同展覧会に久保田成子が深く関わっていたことは確かだろう。赤瀬川原平、風倉匠、土方巽ら40人余りの多様なジャンルのアーティストがパフォーマンスを行った。内容については、黒ダライ児、前掲書、174頁を参照。⑽「美の証言者達・現代美術を側面から支えた2人の死」『アトリエ』1985年1月号、113−116頁。⑾「このクールでインテレクチャルで、アナーキーそしてアヴァンギャルドな内科画廊で私の作品を発表しデビューしたいと思った」(1999年7月30日消印の久保田成子の手紙より)宮田有香、「『内科だった、画廊だった─』ふたたび〈内科画廊─ʼ60年代の前衛展〉開催まで⑪」、『あいだ』80号、2002年8月20日、31−32頁。⑿久保田成子「しごとのデッサン」、『京都新聞』1999年5月29日。⒀久保田はまた、「人が登り、歩くことによって紙くずの山の形が変わっていく、プロセス・アートでもあり、コンセプチャル・アートでもあった」と述べている。宮田有香、前掲論文、32頁。⒁Moira Roth, “The Voice of Shigeko Kubota: ʻA Fusion of Art and Life, Asia and America…ʼ ”, ShigekoKubota: Video Sculpture [exhibition catalog], Astoria, N.Y.: American Museum of the Moving Image,1991, p. 77. この時のケージとチュアードの公演は、当時の日本の芸術界に「ケージ・ショック」と呼ばれるほどの衝撃を与え、音楽の世界にとどまらず、様々な芸術ジャンルに波及した。『草月とその時代1945−1970』[芦屋市立美術博物館、千葉市美術館展覧会図録]、草月とその時代展実行委員会、1998年、221頁。⒃久保田は1963年の内科画廊の個展の際に、2層式になった招待状の上層のトレーシングペーパーに、スコアとも言える以下のような文章を印刷している。「Make a floor with waste paper whichare all love letters to you, Spread a sheet of white cloth on the floor, Skin your lips by yourself, kiss aman who has mustache in audience.」これは、先にマチューナスに送ったインストラクションに含まれている「1. A Beehive」「3. A blue love」に由来することは明白だが、彼女が同個展の会場で指示された行為をすべて(自らあるいは観客によって)実現していたかどうかは明らかではない。⒄久保田成子、南禎鎬、前掲書、7−8頁。⒅同書、8頁。⒆久保田成子は近年、このパフォーマンスがパイクの発案によるもので、彼の強い依頼によって行われたことを告白している。同書、19−20頁。⒇その後、一度だけ、キャロリー・シュネーマンの反戦パフォーマンス《スノウズ(Snows)》にヴェトナム女性の役として出演している。同書、24頁。
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