鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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1356)の書論『入木抄』には、以下のような一節が見える。注目されるのは、小林強・高城弘一『古筆切研究』1(思文閣出版、2000年)のうち、小林氏の執筆の「11世尊寺行尹筆続古今集巻物切」である。世尊寺行尹(1286−1350)は、世尊寺家12代当主。10代・経尹(1247−1311−?)の子で、従三位・宮内卿に昇っている(注6)。小林氏は、『高松宮御蔵『御手鑑』』(日本古典文学会、1979年)の木下政雄「37七社奉納和歌断簡(七社切)」解説が「七社切」〔図1〕を行尹の真跡と認めるのをうけて、平仮名・変体仮名また踊り字について特徴を指摘し、それらが行尹を伝称筆者とする「続古今集巻物切」〔図2〕にも見出せることから、両者を同筆(同一人物の筆跡)と認定、この「続古今集巻物切」もまた行尹の真跡であるとする。この成果を踏まえて、改めて「七社切」と「続古今集巻物切」とを比較対照してみると、両者に共通する特徴として、新たに、太線による連綿(字を続けて書くこと)を析出することができる〔図3、4〕。この連綿は、自然な筆勢によるものではなく、意図して太線を用いているように見受けられる。ここで、絵巻物にも目を向けてみたい。「後三年合戦絵巻」(東京国立博物館蔵)の下巻の詞書は、世尊寺行忠(1312−81)の書写になるものである(注7)。行忠は、世尊寺家13代当主。12代・行尹の嫡男とされるが、実は行尹の兄・有能の子で、正二位・参議に至った(注8)。この行忠筆「後三年合戦絵巻」下巻詞書〔図5〕にも、自然な筆勢によらない、意図したような太線による連綿が見出せるのである〔図6〕。つまり、こうした太線による連綿は行尹個人の特徴ではないということになる。もう一点、「慕帰絵詞」(西本願寺蔵)を見てみよう。その巻10の詞書〔図7〕は、10代・経尹の弟である世尊寺定成(?−1278−1312−?)の曽孫で、14代・行俊の実父、世尊寺伊兼の書写になるものである(注9)。ここにも、上述のような太線による連綿が確認できるのである〔図8〕。太線による連綿は、このように、南北朝時代から室町時代にかけての世尊寺家の人々に認められる書法上の特徴といえる。果たしてこれは、偶然なのであろうか。次にこの点について、文献の記述から探ってみたい。行尹とその兄、11代・世尊寺行房(?−1337)の兄弟に書を学んだ尊円親王(1298−行成■が後胤は皆権跡を写来。聊も筆体を不改。但時代にしたがゐて次第にかはりたる様に外儀はみゆれども、其実は全同也。更異風を不交。行能■より以来今の行忠まで殊同姿也。能々写得たりとは見候也。(注10)― 566 ―

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