― 567 ―藤原行成の子孫である世尊寺家の人々は皆、行成の筆跡を写してきたのであり、「異風を交えず」、8代・行能(1179−1253?)(注11)から13代・行忠までは、とりわけ同じ姿かたちをしていたという。世尊寺家と関わりの深い尊円親王の著述であり、一定の信憑性があろう。一条兼良(1402−81)の撰かとされる往来物『尺素往来』には、次のようにある。行能・定成・経朝以来、彼一流尤繁昌。公界之書役一円領掌焉。遣異国之牒状・大嘗会之屛風、幷賢聖障子等是也。色紙形・寺社額及諷誦・願文等、就不接他家之筆、世挙号家様。諸人競求学者也。(注12)ここでも行能が起点となって、世尊寺家の隆盛が述べられる。朝廷の書き役としての職能が挙げられ、色紙形や寺社の額などの書写については、「他家の筆」とは隔たった「家様」と称される世尊寺家独自の書法があったという。これらの文献からは、当該期の世尊寺家には、偶然によるものではない、継承された家独自の書法のあったことが窺える。『尺素往来』では、絵巻物や歌集(分割されて古筆切となる)の書写について触れていない。しかし、絵巻物の詞書については、行房が祖父の9代・世尊寺経朝(1215−76)の秘説を記した書論『右筆条々』に「書絵詞様」(注13)の項目が、16代・行高(のち行康。1412−78)の書論『世尊寺侍従行季二十ケ条追加』に「絵詞事」(注14)の項目があり、その書写に世尊寺家が携わってきたことが知られる。歌集の書写も、世尊寺家にとって重要なものであった。早く6代・伊行(?−1149−75)の書論『夜鶴庭訓抄』には「歌書様」(注15)の項目があり、三代集の書写に関する口伝も記される。以降の勅撰集において、同家の人々は奏覧本の清書をしばしば勤めている(注16)。関連して、『兼載雑談』の次の一節は、大変興味深い。世尊寺の家には、手跡を本とすれば、歌などはかきちがひたれど、よく書きたると思はれし時は、其のまゝにて被出き。これ嗜家故也。(注17)世尊寺家の人々は、和歌の書写に際して、テキストとしての正確さよりも、書としての出来映えを重視したというのである。優先されるべき書法の存在を示唆しているとも解せよう。
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