鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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― 569 ―こうした観点に立って「長門切」を見直してみた時、世尊寺行俊という伝称筆者は、どのような性格を有しているのであろうか(注25)。従来、「長門切」の書については、「世尊寺風」「世尊寺流」と評されてきた(注26)。物語の書写に関しては、伊行の書論『夜鶴庭訓抄』の「物語ヲバ手書ノ書ヌコトニテ候」(注27)の一節が知られる。しかし、伊行自身『源氏物語』の最古の注釈『源氏釈』を著し、孫の行能による同物語の書写が確認できるように、世尊寺家の人々が物語の書写を行わなかったわけではないのである(注28)。前節で指摘した世尊寺家の書法は、「長門切」〔図9〕においても看取することはできるだろうか。「長門切」にも、稿者が南北朝・室町時代に継承された世尊寺家の書法の一端と考える、自然な筆勢によらない意図したような太線による連綿を、時に漢字も交えつつ、見出せるのである〔図10〕。「長門切」における伝称筆者・世尊寺行俊には、様式の指標としての性格が認められよう。ただし、「長門切」の実際の筆者は複数名いるものと考えられており(注29)、伝称筆者についても、新出断簡で新たに行俊以外の事例が紹介された(注30)。また書写年代に関連して、料紙の原料は1273〜1380年の間、特に1279〜91年に刈り取られた確率が高いとの科学的な年代測定の結果が出ている(注31)。そして、世尊寺家歴代の中で何故、行俊とされたのかという疑問も残る。後者に関しては、鎌倉時代の僧・隆円の楽書『文机談』の伝本の一つ「伏見宮本 文机談」(宮内庁書陵部蔵)の存在に近時、気づき得た。「伏見宮本 文机談」は世尊寺行俊を伝称筆者とし、その宮内庁書陵部編複製本(吉川弘文館、1971年)の解説は、「本書の筆蹟は、この「長門切」とほぼ同筆とみられる」(注32)と述べる。同本の旧蔵者である伏見宮家には、行俊が崇光院(1334−98)に勤仕してより代々、世尊寺家の人々が祗候しており(注33)、「長門切」の伝来とも係わって、注意を要しよう。「長門切」と「伏見宮本 文机談」の同筆説の検証を含め、これらの諸課題については、後考を期したい。なお、調査の過程で、古筆・古写経研究でも知られる書家・田中塊堂が会長を務めた大阪かな研究会発行の『かな研究』37号(1969年)に、本文未集成の断簡影印1葉(『源平盛衰記』巻42相当)の掲載を確認している。むすびにかえて ─世尊寺家書法の淵源─本稿の調査・検討、考察の結果をまとめれば、次の通りである。

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